太田述正コラム#14302(2024.6.28)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その12)>(2024.9.23公開)

 「・・・日清戦争・・・は何故に戦われたが。
 そは表面においては日支両国の戦争であるが、その本質においてはヨーロッパの東亜侵略に対する日本の第一次反撃であり、日本はヨーロッパ侵略主義の手先たりし支那に対して、武力的抗議を敢行したのである。
 長く鎖国状態にありし朝鮮が、明治初年よりその国を開いた<(注20)>。・・・

 (注20)「1875年8月、日本の軍艦雲揚<が>江華島水域に侵入して測量を強行したのに対して朝鮮側が発砲し、江華島事件が起こると、日本側はその責任を追及して交渉に持ち込み、翌1876年2月に日朝修好条規(江華条約)の締結に至った。ここでは第一項に「朝鮮は自主の邦」と明記したが、日本の治外法権を認めること、関税自主権がない(関税に関しては無規定だった)などの点で日本がかつて<米・英>などと締結した不平等条約と同様であった。この不平等(片務的)な規定の下で朝鮮は開国することとなり、同年の釜山に続いて1880年に元山、83年に仁川の三港が開港することとなった。
 この段階で朝鮮が日本の開国要求に応じたのは、1873年に高宗の親政開始とともに対外強硬派の大院君が退き、政権が閔妃とその一派に代わっていたことも背景にあった。・・・
 朝鮮の開国は、幕末の日本がそうであったように、米穀などの輸出の急増によって国内の米不足、物価騰貴をもたらし、民衆生活を圧迫した。その原因を閔妃政権の開化政策にあると直感した兵士と貧民は1882年に壬午軍乱に立ち上がる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh1303-127.html

⇒大川は、日本が武力を背景に朝鮮を開国させた、と、書くべきでした。(太田)

 この時に当りて日支両国は、欧米の・・・朝鮮・・・侵略に対し、相結んで共同戦線を張るか、然らずば互いに敵国となるか、二者その一を択ぶべき関係に置かれていた。
 而して支那の腐敗せる政治家は、愚かにも後者を選んだ。・・・

⇒当時の、日蓮主義者が牛耳る日本の政府は、清を介在させずに事実上の条約を朝鮮と結び、その中で「朝鮮は自主の邦」と明記させることで、朝鮮が清の宗主国であるところの体制に風穴を開けることによって、清を辱めたのであり、その狙いは、日清戦争を惹起させて清を破り、清を決定的に辱めるところにあったのです。
 「支那の腐敗せる政治家」が日本と「互いに敵国となる」であろうことは織り込み済みだった、ということです。(太田)

 彼らは、朝鮮を護るために非ず、実に朝鮮を売るために、朝鮮に対する宗主権を主張した。
 而して朝鮮政府に詢(はか)ることなくして、北鮮の沿岸地帯をロシアの海軍根拠地として割譲し、朝鮮海峡の要衝巨文島(コムンとう)のイギリス占領を承認するに至った。
 日清戦争はかくの如くにして誘発された。
 そは支那を傀儡とせるヨーロッパの朝鮮侵略に対し、国家の安危を脅される日本人の反撃に外ならなかった。」(21~22)

⇒日本政府の読み通り、清が、以夷制夷(注21)(いいせいい)策に出てきてくれたので、同政府は、内心欣喜雀躍しつつ、それらは日本への脅威である、とイチャモンを付け、日清戦争を誘発させたわけです。(太田)

 (注21)「《「後漢書」鄧禹伝から》外国を利用して他の国を抑え、自国は戦わずに利益を収め、安全を図る。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%B7%E3%82%92%E4%BB%A5%E3%81%A6%E5%A4%B7%E3%82%92%E5%88%B6%E3%81%99-429847

(続く)