太田述正コラム#14304(2024.6.29)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その13)>(2024.9.24公開)

 「日清戦争がヨーロッパの東亜侵略に対する日本の反撃なりとすれば、戦後の三国干渉は来るべきものが来ただけである。
 しかも東洋平和の名において露独仏三国を日本に干渉せしめながら、日本より奪回せる遼東半島を直ちにロシアに与えることを密約<(注21)>せる李鴻章および常蔭桓<(注22)>が、それぞれ50万ルーブルおよび25万金ルーブルの賄賂を受取ったことが、無慚にもウィッテの『回想録』に暴露されている。」(22~23)

 (注21)露清密約=露清同盟密約=李‐ロバノフ条約。「1896年、ロシア、清国間に結ばれた秘密条約。・・・李鴻章とロシア外相ロバノフとの間でモスクワで調印された。ロシアは1891年シベリア鉄道の建設に着手し、これに関連して中国東北への進出をねらっていた。95年、ロシアはいわゆる三国干渉を行って日本から遼東半島を還付させ清国に恩を売った。96年、ニコライ2世の戴冠式列席のため、李鴻章がロシアを訪れると、ロシアは彼に強請してこの条約を締結させた。その際、多額の賄賂が使われたという。条約は全6条。この条約によりロシアは、中国東北を貫く東清鉄道の敷設権を得、以後、急速に同地方に進出していった。よく秘密が保たれたため、いろいろ推測がなされた。・・・ロシア革命後になってようやく<この>条約の全貌が明らかとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%8E%E3%83%95%E6%9D%A1%E7%B4%84-1607577
 (注22)張蔭桓(1837~1900年)の誤り。「1895年、日清戦争で北洋艦隊が惨敗したため、清国朝廷は講和のために戸部左侍郎であった張蔭桓と湖南巡撫邵友濂を全権大使として派遣した。しかし全権委任状の不備のために広島での交渉を拒絶され、結局李鴻章とその養子の李経方と交代することになった。なお、交代した李鴻章・李経方は下関条約を調印している。
 1897年にはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ドイツ・ロシアを歴訪した。1898年3月には、北京市で調印された旅順・大連租借に関する露清条約の次席全権委員を務めた(主席全権は李鴻章)。
 張蔭桓は変法運動を支持しており、康有為とも親密であったため、戊戌の政変後、新疆省へ流罪となった。1900年、義和団の乱の最中に流刑先で処刑された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E8%94%AD%E6%A1%93

⇒「ロシア側から<露清密約>の交渉の際に李鴻章らに賄賂が贈られたことは事実である。しかしその賄賂が交渉に与えた影響は、レンセンの指摘するように大きくないとするのが妥当である。ドイツやフランスの支持を受けた、ロシアの武力に抵抗するには、当時の清国は無力であった。George Alexander Lensen, Balance of Intrigue International Rivalry in Korea and Manchuria 1884-1899, Vol.2, Tallahassee, 1982,p.787」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwjArJWZxoCHAxXQkq8BHdshIjAQFnoECBMQAQ&url=https%3A%2F%2Fopac.osaka-gu.ac.jp%2F%3Faction%3Dcommon_download_main%26upload_id%3D1389&usg=AOvVaw1ccEG97FrCndlswKTDYm6s&opi=89978449
ということと、「直ちに」に該当する1896年の「賄賂が贈られた」露清密約自体ではなく、「1898年3月<に>、対日賠償金の援助に対する担保と、清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、「旅順(港)大連(湾)租借に関する条約」<(注23)>がロシアと清の間で結ばれ<、>これによりロシアは遼東半島の南端の旅順・大連の25年間に渡る租借権と、東清鉄道と大連とを結ぶ支線(南満洲支線)の鉄道敷設権を得て、軍港や鉄道などの建設が始まった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%B8%85%E5%AF%86%E7%B4%84
ということからも、大川はプロパガンダとして「大東亜秩序建設」を書いたことが分かります。(太田)

 (注23)「1898年3月27日、ロシア帝国は、下関条約で決まった対日賠償金の援助に対する担保と清国内で起こる排外主義運動に対する責任を理由に、旅順港(ポート・アーサー)および大連湾(ダルニー)の租借に関する条約を清国に結ばせた。調印したのは、清国側が李鴻章と張蔭桓、ロシア側が アレクサンドル・パヴロフ、調印地は北京であった。9か条より成る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%85%E9%A0%86%E3%83%BB%E5%A4%A7%E9%80%A3%E7%A7%9F%E5%80%9F%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E9%9C%B2%E6%B8%85%E6%9D%A1%E7%B4%84

(続く)