太田述正コラム#14306(2024.6.30)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その14)>(2024.9.25公開)

 「・・・日清戦争を通して支那の無力と腐敗とを確実に知り得た列強は、いまやこの国に対して如何なる遠慮の必要も認めなくなった。
 当時年少の陸軍大尉、後に西蔵(チベット)遠征によって世界にその名を知られたる英国軍人ヤングハズバンド<(コラム#10881、10959)>は、支那は土地広く物多く、しかも最も人の住むに適する温帯に位している。かくの如き地域を一民族の占有に委ねて置くことは神意に背くAgainst God’s Willとさえ公言した<(注24)>。・・・

 (注24)Francis Younghusband(1863~1942年)の英語ウィキペディアにも、その類の話は全然出てこない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Younghusband
 ちなみに、その後(?)’Younghusband took interest in Eastern philosophy and Theosophy and dismissed the idea of an anthropomorphic god.’(上掲)だそうだ。

 但し列強のうち最も露骨にその野心を遂行せんとしたのはロシアであった。・・・
 それゆえに日本は敢然起ってロシアと戦い、見事にその野望を挫いた。・・・
 奉天の会戦は、古(いにしえ)のサラミスの戦い、またはトゥール・ポアティエの戦に比すべき深刻なる世界的意義を有することが、年と共に明瞭になった。・・・

⇒まあ、ここは、大川の言う通りですが、ちょっと脱線させていただくと、トゥール・ポアティエの戦の方はともかくとして、サラミスの海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
の方は、「ペルシア側の布陣は西翼にフェニキア艦隊、東翼にイオニア連合艦隊が展開するものであった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%81%AE%E6%B5%B7%E6%88%A6
というのですから、総司令官がクセルクセスのアケメネス朝ペルシャはペルシャ直轄艦隊を持っていなかったんですね。イオニア人もギリシャ人ですから、これでは、ペルシャ側の情報は駄々洩れだったことでしょう。(太田)

インドの家々の神壇に、彼らの宗教改革者ヴィヴェーカーナンダ<(注25)>の肖像と相並んで、明治天皇のご真影が飾られた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%80

 (注25)Swami Vivekananda(1863~1902年)。「インドのヒンドゥー教の出家者、ヨーガ指導者、社会活動家。ラーマクリシュナの弟子・後継者であり、ラーマクリシュナ僧院とラーマクリシュナ・ミッションの創設者である。

 インド不安はこのころより漸く英国政府の憂慮の種となり、インド駐屯の英国軍隊は、日曜の礼拝も小銃には弾丸を込め、剣は鞘を払ったまま行われるようになった。
 ペルシアの新聞は・・・『強きこと日本の如く、独立を全うすること日本の如き国家となるために、ペルシアは日本と結ばねばならぬ。日波同盟は欠くべからざる必要になった」と力説した。
 エジプトにおける国家主義の機関紙アル・モヤドは、日本が回教国たらんことを切望し『回教日本の出現と共に、回教徒の全政策は根本的に一変するであろう』と講じた。
 エジプトの独立運動、トルコおよびペルシアの革命運動、インドの独立運動、および安南の民族運動など、一として日露戦争によるアジア覚醒の現れならざるはない。

⇒ここはその通りだと思いますが、この前後に書かれていることは、典拠が付いていないに等しく、検証することができませんでした。(太田)

 当時における彼らの感情を、最も切実に表白せるものは、エジプトの国民主義者ヤヒヤ・スィツディクがその著『回暦第14世紀における回教諸国の覚醒』を結べる下の文章である–「・・・ヨーロッパのアジアに対する監督は、日に日に名目のみとなり、アジアの諸々の鉄門は、彼らに対して鎖ざされつつある。吾らは世界史の未だかつて知らざる革命の出現を、明白確実に吾らの前に洞見する。げに新しき世は近付いた』と。」(24~26)

(続く)