太田述正コラム#14314(2024.7.4)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その18)>(2024.9.29公開)

 「日本の国際的地位が、馬進まずして四面唯だ楚歌を聞く時に当り、国内の形勢また秋風落莫であった。
 大震直後に成立せる山本〔権兵衛〕内閣は、何程かの期待を国民から懸けられたが、空前の不祥事のために総辞職し、その後政友会より分離せる政友本党が、憲政会と合同して民政党を組織してより、政民両党の露骨無慚なる政権争奪戦が行われ、天下を挙げてその党争場裡と化し去った。
 内閣更迭の度毎に、地方長官は言うに及ばず、判任官や傭人の末に至るまでその影響を蒙らざるはなく、巡査や小学教師までもいやしくも自党に従順ならざる者は悉く馘首の憂目にあわせた。<(注35)>

 (注35)「政党政治は・・・警察・消防・やくざ・・・から・・・医者<等の>・・・市民までも系列化して自分たちの当選を安定させようとした。こんな政治<が>8年も<続い>た<。>」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E7%AD%92%E4%BA%95%E6%B8%85%E5%BF%A0_000000000499708/item_%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%88%A6%E5%89%8D%E6%9C%9F%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%85%9A%E6%94%BF%E6%B2%BB-%E4%BA%8C%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%85%9A%E5%88%B6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E6%8C%AB%E6%8A%98%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8_5163483

 而してかくの如き政権の争奪が、空々しくも憲政の常道と呼ばれていた。
 憲政の常道とは、アングロ・サキソン流の議会政治を意味する。

⇒そのような意味においては、それは米国流の政治であって、イギリスや西欧の議会政治ではありません。(注36)

 (注36)「アメリカとヨーロッパ主要国における政治任用に係る制度の差異の背景」
https://www.gyoukaku.go.jp/koumuin/komon/working/dai1/siryo13.pdf

 但し、二大政党間の醜悪な政争を繰り広げた、加藤高明(憲政)、若槻禮次郎(憲政)、田中義一(政友)、濱口雄幸(民政)、若槻禮次郎(民政)、犬養毅(政友)、高橋是清(政友)、という歴代首相のうち、憲政会の加藤高明、政友会の田中義一と犬養毅、は、日蓮主義者であり(典拠省略)、政党政治/憲政の常道、なんざあ、来るべき日蓮主義の観点からするところの最終戦争、までのつなぎである、という割り切った認識でいた、と、私は見ています。(太田)

 かくて当時の日本の政治的理想は、英米の個人主義・民主主義・資本主義を根柢とする政治機構であった。
 加うるに一方にはモスクワに本部を有する第三インタナショナルの宣伝が、内憂外患による国民の不平不満に乗じて、頓に激烈を加え来り、ロシアを祖国と讃え、その指令を仰ぐマルクス宗の伴天連共が、日本共産党を組織して国体の根本的変革を目的とする言語道断の運動を始めるに至った。
 かくの如くにして、祖国をロシアに求め、魂を英米に売れる日本人が、都にも鄙にも充満せんとしつつあった。・・・
 日本は、決して支那を恐れて大陸政策に消極的となったのではない。
 事の是非善悪を問わず実力を以て支那と争うこと、而して勢力を大陸に伸張することによって、英米の激怒に触れんことを恐れたのである。
 支那はこの事を熟知していたので、満洲における排日は年と共に加わった。・・・

⇒当時の日本の日蓮主義中枢は、この成行に、さぞ満足していたことでしょうね。(太田)

 この傾向は、昭和3<(1928)>年の夏、張作霖爆死して張学良が満洲の新主人となるに及んで一層激化した。・・・
 政府の対満政策に不満なりし国民は、柳条溝爆破に対して取りたる関東軍の行動に、魂の奥底から共鳴して熱狂的なる支持をこれに与えた。

⇒杉山構想策定が完了するまでには、同構想を実施する環境はほぼ完ぺきに整えられていた、と、言えそうです。(太田)

 全国に漲るこの澎湃たる国民的支持ありしために、満州事変はその進むべき方向に正しく進み、遂に満州帝国の建設を見るに至ったのである。」(36~38、40)

⇒杉山構想が実施され始めて初めて挙げた大成果です。(太田)

(続く)