太田述正コラム#14326(2024.7.10)
<大川周明『大東亜秩序建設/新亜細亜小論』を読む(その24)>(2024.10.5公開)
「・・・支那事変の本質ならびに意義は、戦局の進展と共に次第に明瞭となった。
単純にして無内容なる暴支膺懲<(注47)>のスローガンは、いつの間にかその影を潜め、東亜新秩序の建設、次では大東亜共栄圏の確立という戦争目的ならびに理想が、高く掲げられるようになった。
(注47)「日本の陸軍省などが中華民国・蔣介石政権に一撃を加えることで排日抗日運動に歯止めをかけようという意味で使用した合言葉である。言葉の意味は「暴戻(ぼうれい)支那ヲ膺懲(ようちょう)ス」の短縮形で、「横暴(=暴戻)な中国(=支那)を懲らしめよ」を意味する標語である。・・・
大本営が国民の戦闘精神を鼓舞するために利用したスローガンでもある。
1937年(昭和12年)7月の盧溝橋事件(7月7日)および通州事件(7月29日)を発端にして頻用されるようになり、「暴支膺懲国民大会」が数多く開催された。同年7月21日には日本革新党が日比谷公会堂で開催したほか、9月2日に東京府東京市(当時)の芝公園で開催された対支同志会主催・貴族院及び在郷軍人会、政財界後援による暴支膺懲国民大会では「共匪追討」(=共産主義の悪党を追い討て)や「抗日絶滅」がキャッチフレーズとなっており、政財界や言論界の人物が登壇したという。
対米英開戦後(太平洋戦争中)は「鬼畜米英」が前置されるようになり、合わせて「鬼畜米英、暴支膺懲」となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E6%94%AF%E8%86%BA%E6%87%B2
「実際にはイギリスよりアメリカが主な敵と見なされたために<、「鬼畜米英」よりも>「米鬼」の方が多く使われたらしい。」
https://dic.pixiv.net/a/%E9%AC%BC%E7%95%9C%E7%B1%B3%E8%8B%B1
⇒東亜新秩序にしても大東亜共栄圏にしても、直接的ないし間接的に人間主義理念が明確に掲げられることはありませんでしたが、それは、当時の、というか、今でも同じですが、明治以降の日本の文系学者のレベルの低さに起因して政府や軍部とは無関係にそういったことを打ち出せた文系学者がいなかったこともさることながら、打ち出したければ打ち出せた人材を抱えていた帝国陸軍、より端的には杉山ら、が、そうしたくなかったからだ、と、私は見ています。
広義の欧米に、その三すくみの状況を克服して団結する万が一の可能性を招来するような、普遍性ある科学的な新理念の「脅威」をつきつけることを避けた、と。(太田)
東亜秩序は疑いもなく世界秩序の一部であり、東亜新秩序の建設は世界旧秩序の破壊を前提とする。
この論理は晴天に白日を指す如く明かなるに拘らず、この理想が初めて掲げられしころ、日本のうちには東亜を世界から分離し、唯だ東亜だけの新秩序を実現し得るかの如く空想せる者が多かった。
さりながら東亜新秩序建設のための最も根本的なる条件は、東亜諸民族が日本と協力提携すること、ならびに米・英・仏・蘭の勢力を東亜より駆逐することである。
東亜を白人の植民地または半植民地たる現状より開放することが、新秩序建設の第一歩である以上、これらの諸国との衝突は遂に免るべくもない。
それゆえに日本は、万一の場合にこれらの諸国と決戦する覚悟なくして斯かる声明を世界に向って発する道理はない。」(47~48)
⇒このくだりは、珍しく大川が文句のつけようのないことを書いています。(太田)
(続く)