太田述正コラム#14392(2024.8.11)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その9)>(2024.11.6公開)
「・・・仁徳天皇が下々の人民をお憐み遊ばされた事は明かである。
また醍醐天皇が、寒夜に御衣を御脱ぎ遊ばして、民の疾苦を御察しあらせられたといふ事がある。<(注1)>・・・
(注1)「寒中の雪降りの夜に「諸国の民はいかに寒からむ」とて御衣を寝室より投げ出す。・・・民の上を偲んだ醍醐天皇は、疾病や天候の不順な時には大赦したり、税を免じたり、収穫のよくない年には民の負担を減らすために重陽の節句を何度も中止されたとある。また、旱魃の時には一般民に冷泉院の池の水を汲むことを許し、そこの水がなくなると、さらに神泉苑の水も汲ませ、ここの水もなくなったとある。鴨川の洪水などがあれば、水害を蒙った者に助けの手を差し出したり、その年貢や労役を免除されたとある。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
また九州の博多に行つて見ると、筥崎八幡には醍醐天皇の宸翰にて「敵国降伏」と書せられたものが37枚保存せられてある。・・・
たゞこの宸翰は醍醐天皇にあらずして、亀山天皇なりとの説がある。<(注2)>」(43)
(注2)「筥崎宮(はこざきぐう)・・・は延喜21年(921年)に醍醐天皇により創建された神社で、筥崎八幡宮とも呼ばれます。
大分県宇佐市の宇佐神宮、京都府八幡市の石清水八幡宮とあわせて三大八幡宮の一つに数えられます。」
https://jisha-toranomaki.com/shrine-hakozakigu/
「楼門の「敵国降伏」はもともと醍醐天皇の宸筆で、以降の天皇も納めている。現在楼門に掲げられているのは、蒙古襲来により炎上した社殿の再興にあたり亀山上皇の宸筆を拡大したもの。」
https://namukashi.com/temples-and-shrines/hakozakigu/
「その意味は、武力で相手を・・・降伏させる(覇道)ではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら靡き降伏するという王道である我が国のあり方を説いている。」
http://uchiyama.info/oriori/kentiku/zinja/hakozaki/
⇒醍醐天皇(885~930年。天皇:897~930年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E5%A4%A9%E7%9A%87
は、天皇在位の頃に日本に外患などなかった筈なのに、どうして尚武の筥崎宮を創建し、しかも、「敵国降伏」の宸翰を多数奉納したのでしょうか。
恐らくは、武家創出/封建社会化が始まり、日本の軍事力が払底に近い状態にあって、現に蝦夷対策さえ思うに任せなくなっていた・・そのことが元慶の乱(がんぎょうのらん。878年)で明らかになっていた(コラム#13549)・・ことで、醍醐天皇が外患の出来を恐れたためではないでしょうか。
日本には武力がないに等しいため、自ずから、覇道ではなく王道で対処する旨を、醍醐天皇は書かざるをえなかったのではないでしょうか。(太田)
(続く)