太田述正コラム#14400(2024.8.15)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その13)>(2024.11.10公開)
「・・・國體といふ漢字は、その文字の出生地たる支那に於ては、遠き昔より使用されたのであります。
しかし、現今の國體なる語が、規範をこれに求めたとは思はれないのであります。
また我が万葉集にも國體と書いてクニガタとよませたこともありますが、これもまた直接に関聯があるとは見えないのであります。
新しい語義の國體なる語は、徳川時代の儒者中神道を高調せる人々が、我が国家を論ずるに当つて、この語を用ゐたるに始まつたもので、殊に水戸の学者は盛んにこれを用ゐ、弘道館記に「國體之を以つて尊厳なり」とあるのみならず、会沢正志の新論には「國體」と題する一章を巻頭に掲げてをるのであります。
維新の後には勅諭の中にもしば〳〵この語を拝するのであります。
「國體」<(注2)>なる語は、それ自身も波風荒き試練を経て、今日のやうに「我が国の我が国たる特性」を現はすといふ名誉ある地位をかち得たのであります。・・・
(注2)「山鹿素行(1622-1685)は・・・幕府の忌憚に触れ赤穂に配流された。配流中の寛文9年(1669)に『中朝事実』を著した。同書では、日本の政教の淵源を説き、天照大神の天孫降臨の神勅によって皇統の無窮が永久に定まったことを述べ、また、日本が神国である所以を論じた。この書は日本を中朝、中華、中国と称した初めての例であった。山鹿素行はまた『配所残筆』を著して、他国と異なり優秀である日本の国体の淵源を説いた。・・・
山崎闇斎(1619-1682)・・・に関しては先哲叢談に載せる有名な逸話がある。あるとき闇斎が弟子たちに向かって問題を出した。孔子と孟子が日本に攻めてきたとしたら、孔孟を学ぶ者はどうすべきか。弟子は誰も答えられない。闇斎の答えは、孔孟と戦ってこれを捕虜とし、もって国恩に報いる、これが孔孟の道である、というものであったという。これは闇斎の人となりをうまく表した逸話であり、闇斎の学問はここに立脚する。・・・
徳川光圀・・・は山崎闇斎流の崎門学者を水戸に招聘した。・・・近世国体論の中心というべき水戸学の起源は山崎闇斎にあるといわれる。・・・
荻生徂徠(1666-1728)に始まる江戸の物門流の人々の国体論は、自国尊重論とは正反対であった。荻生徂徠本人の国体論は見ることはできず、ただ徂徠がみずから東夷と称する極端な唐土崇拝者であったことから推察するしかない。徂徠門下の太宰春台もまた唐土の聖人の道を崇拝し、日本を夷狄の国とするものであって、儒教輸入以前の日本の国体や道徳を取るに足らないものとみなし、日本の神道なるものを否認した。同門の山県周南もまた、古代日本に道はなく、聖人の道が輸入されてはじめて道ができたと説いた。以上のような物門流の極端な唐土崇拝は、一部の儒者の反発を招き、また後年に流行する国学者流の排外熱を誘発するきっかけとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BD%93
⇒上掲のウィキペディアの詳細さとその中身の充実ぶりには敬意を表したいですね。その中の、ぜひとも押さえておきたい箇所を「注2」中に転記しました。
なお、支那事大主義者の荻生徂徠が「享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
ことは、吉宗の日蓮主義に照らして不思議と言えば不思議ですが、徂徠が、「『政談』のうち「四十七士論」(宝永2年)で・・・「内匠頭の刃傷は匹夫の勇による『不義』の行為であり、討ち入りは主君の『邪志』を継いだもので義とは言えず」と論じている」(上掲)点や朱子学をディスった点を買ったのかもしれませんね。(太田)
故杉浦重剛学統の祖、勤王の儒、岩垣松苗<(注3)>先生はかう申してゐるのであります。」(80、85)
(注3)岩垣東園(1774~1849年)。「名は松苗・・・。東園また謙亭と号した。京都の儒学者西尾杏庵(にしおきょうあん)の子で、のち岩垣竜渓(りょうけい)(1741―1808)の養子となった。古註(こちゅう)学派の伏原宣光(ふしはらのぶみつ)(1750―1828)に儒学を学び、また国史にもよく通じた。養父竜渓の後を継いで大舎人助(おおとねりすけ)に任ぜられ、大学音博士(はかせ)にも兼ね任ぜられて、従五位上となった。遵古堂(じゅんこどう)で門下生の教育にあたった。その著『国史略』5巻は、建国から豊臣氏の全国統一までを叙述したもので、1826年(文政9)に刊行され、その後明治初年まで広く読まれた。同書を国史教科書として用いた藩校も多かった。詩文もよくし、『東園百絶』『続東園百絶』がそれぞれ1827年と1828年に刊行されている。」
https://kotobank.jp/word/%E5%B2%A9%E5%9E%A3%E6%9D%B1%E5%9C%92
(続く)