太田述正コラム#14402(2024.8.16)
<杉浦重剛/白鳥庫吉/松宮春一郎『國體真義』を読む(その14)>(2024.11.11公開)
「・・・我が皇朝・・・<の>天子は実に天上の人なり<、と>。・・・
仏教・・・、クリスト教・・・、儒教・・・<は、いずれも、>歴史的実在の人としては、僅かに一人の神人を出したに過ぎないのに反して、我が国には歴代の天皇が必ずこれ等の神人と等しく、人民の幸福と国家の隆昌の為には如何なる他の教へも取入れ給ふのであります。・・・
天皇=国民=国家・・・
かやうに<、我が国では、>三者が何れに対しても同一<なので>・・・す。・・・
イギリス<で>は・・・主権は議会にあるのであります。
議会に於ける君主が主権者といふことになるのであります。・・・
それで明かに共和国であり、君主は世襲の大統領と同一であります。・・・
ベルギーの憲法には「総ての権力は国民より出づ。権力は憲法を以つて定めた方法によつて行ふ。立法権は、国王、代議<院>、元老院が共同してこれを行ふ」とあります。
スペインの憲法には「立法権は国王と共同に国会に存す」とあります。
オランダの憲法には「立法権は国王及び国会共同してこれを行ふ」とあります。
デンマルクの憲法には「政体は制限君主制で、王位は世襲とする。立法権は共同して行ふ国王及び国会にこれを授く」とあります。
ノルウェーの憲法には「政体は制限的世襲君主制とする。人民は国会によつて立法権を行ふ」とあります。
ユーゴスラヴィア王国の憲法には「政体は立憲代議世襲君主制とする。立法権は共同に国王及び国民議会に属する」とあります。
これに見ても、名は君主国といひながらその実は共和国なのであります。・・・
⇒これは戦前の状況であり、現在どうなっているのか調べる労を惜しみましたが、いずれの君主国も議会主権的な憲法になっているのは、イギリスのそれを継受したということでしょうか。
もっとも、そう成文(硬性)憲法で規定されている以上は、議会主権「的」ではあっても、憲法に制約を受けることから、議会主権であるとは言い切れませんが・・。(太田)
とにかくも主権の主体が君主一人にある、完全な立憲君主国は我が国日本のみであります。
我が日本が最も典型的な君主国であります。
<日本以外では、>君主の名はあつても、一種の統治機関に過ぎないものが非常に多いのであります。・・・
法理論の立場からすれば、ヨーロッパの君主国と称するものは、すべて民主国に過ぎないのであります。」(87、92、96)
⇒「19世紀中葉以降、イギリスの議会政治が発展し、国民大衆の意志が政治の世界においてしだいにその比重を増してくるなかで、この議会主権ということばの内容も、単に議会が最高権力であるというだけではすまされなくなり、議会と国民との関係を説明する必要が生じてきた。このことをダイシーは「法的主権者」としての議会と「政治的主権者」としての国民という形で巧みに説明している。すなわち、彼は、議会は国権の最高機関であり立法機関でもあるので、日常的には議会の決定は最高かつ合法的であるという意味で、議会を「法的主権者」であると位置づけ、他方、もしも議会のなかで問題が解決されなくなったときには解散によって国民の判断が問われるという意味で、国民を「政治的主権者」と規定しているのである。このように、議会の成立根拠を国民の同意に置くことによってダイシーは、新しい大衆社会の登場時代に見合う議会権力の正統性を理論化したのである。「議会主権」ということばのもつ響きは、一見、「人民主権」や「国民主権」ということばよりも後退しているように思われるかもしれない。しかし「議会主権」という概念の歴史的形成過程をみてもわかるように、このことばのもつ内容は単なる議会万能論というよりも、国民に対する議会の責任の重さを表明していることばとして考えるべきであろう。」
https://kotobank.jp/word/%E8%AD%B0%E4%BC%9A%E4%B8%BB%E6%A8%A9
という、議会制と民主制の弁証法的統合(「日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(続)」(24日公開)参照)的な説明がなされるようになったわけですが、いずれにせよ、(少なくとも男子の)普通選挙で下院議員を選ぶ体制になっていない限り、当該国を民主国とは呼び難いのではないでしょうか。(太田)
(続く)