太田述正コラム#14410(2024.8.20)
<徳富蘇峰『皇道日本の世界化』を読む(その2)>(2024.1.15公開)
「・・・皇道を世界化する理想は、我が肇国(ちようこく)以来の理想であったが、屡々(しばしば)行われんと欲して、屡々頓挫し、それが漸く、明治天皇の御宇(ぎよう)に至って、事実の上に、その端緒を見出し、而して大正、昭和の今日に至って、愈々それが世界化しつつある。
即ち具体的にこれを語れば、明治27<>8年の役(※日清戦争)の如き、37<>8年の役(※日露戦争)の如き、而して昭和6年満洲事変の如きが、それである。
而して今回の支那事変の如きも、遠くいえば、癸丑甲寅(きちゆうこういん)ペルリ(※ペリー)来航以来の引続きであって、近くいえば日清、日露両役以来の延長であるというべきものである。
⇒「皇道」の中身こそ人間主義ではないけれど、ペリー来航以来先の大戦までは一つながり、との蘇峰の認識は自然でかつ正しいのであって、このことを戦後日本人が忘れてしまったことがむしろ不思議であると言わなければなりますまい。(太田)
そもそも今回の事変は、正直のところ、日本がことさらに製作したるものでも無ければ、構造したるものでも無い。
否な恐らくは日本人の中、十中八九までは、これを期図したる者さえ無かったであろう。
⇒豈図らんや、杉山元らが「期図」したることだったわけです。(太田)
然るに相手の支那が強制的に、我に向って挑戦し来りたるものにて、有態(ありてい)の事実は、いやいやながら、売られた喧嘩を、与儀なく買ったまでのことである。
しかしながらこの事変が既に半年を過ぎて、今日となって考察すれば、これは正しく天祐であった。
何故に天祐であるかといえば、この事変のために、日本は否でも応でも、皇道を世界化せねばならぬ極処(※最後のところ)に、打込まれたからである。・・・
日本は好むにせよ、好まざるにせよ、国運を賭して、今や大陸経営に一歩といわず、数歩を踏出した。
最早や背進することは出来ない。
いわゆる背水の陣とは、今日のことである。
⇒こうなるともはやまぐれ当たりではないでしょう。
蘇峰は杉山元らの策謀を嗅ぎ取っていたっぽいですね。(太田)
元来維新以来、あらゆる国民運動は起ったが、その根本を探れば、殆ど皆一に帰している。・・・
方法は氷炭相容れず、寒熱相反したるに拘らず、帰するところは、日本内地より白禍を一掃するに外ならなかった。
それが第一歩である、而して第二歩は、即ち白禍一掃の精神を東亜大陸に拡充することである。
而して今日がその時期である。
甚だ縁遠き話のようであるが、水戸の浪士が桜田門外において、井伊掃部(かもん)(※井伊直弼)を斬ったのも、我が忠勇なる将兵が、南京城を陥れたのも、その精神の帰著するところは、決して二つではない。」(19~21)
⇒但し、そんな蘇峰でも、(日蓮主義者ではないので当然と言えば当然ですが、)幕末・維新より前には、淵源を遡ろうとはしないわけです。(太田)
(続く)