太田述正コラム#14424(2024.8.27)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その1)>(2024.11.21公開)

1 始めに

 「後半」と銘打ったけれど、要するに、「前半」を取り上げた(コラム#13954~#13998)時は有料だった部分が無料化したので、続きを取り上げることにした次第です。
 この情報は、パソコン修理業者からX299パソコンが返送されてきて、それを二階にセットするのをTTさんが手伝ってくれた際に教えてくれたものです。
 昨夜、『始皇帝 天下統一』をアマゾンPrimeで指定したら、自動的に未視聴の第33話の画面が開いてくれました。

2 『始皇帝 天下統一(後半)』を視聴する

 昨夜視聴したのは、始皇帝(BC259~BC210年)が20歳になっても引き続き実母と呂不韋の後見下に置かれていた頃が描かれた部分で、韓非子は、会話の中で言及されつつも、まだ、画面の中には登場していません。
 「秦の法における執政権の継承順位として一位が<始皇帝の義祖母の>華陽太后、二位が<始皇帝の実祖母の>夏太后、<始皇帝の>生母の趙姫は末位であった<というのに、このTVシリーズ>などで<、>嬴政<(始皇帝)>の若年時代に<は、>絶対的な権力を持った呂不韋と趙姫によって秦の朝政が取り仕切られ<てい>た<、>と描かれているのは誤りである<、>とも説かれている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E
ことには、目くじらを立てないことにしましょう。
 私が、一番、気になったのは、20歳になった始皇帝が、自分が、近い将来、実権を掌握し、天下統一を行う際に、多数の人命が失われることを想像して煩悶する、という、始皇帝縄文的弥生人宣言めいた場面です。
 普通人ばかりに取り囲まれていたように描かれる環境下において、どうして始皇帝が縄文的弥生人になったか、まともな説明が、「前半」を含め、なされたことがないというのに・・。
 この場面と同じ頃の話の中で、始皇帝が『呂氏春秋』を熱心に読んだと自ら呂不韋に語る場面がありますが、同書は百科全書的なものであり(注1)、そのうちの何に始皇帝が感銘を受けたのか、分からないままです。

 (注1)「<BC>239年・・・に完成十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家など諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。
 天文暦学や音楽理論、農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されている。
 書名の由来は、1年12カ月を天人相関説(時令説)をもとに春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』、八覧から『呂覧』とする。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E6%B0%8F%E6%98%A5%E7%A7%8B

 始皇帝自身、実高祖母の宣太后(?~BC265年)は楚出身者ですし、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A3%E5%A4%AA%E5%90%8E
楚出身者達であるところの、養祖母の華陽太后やその弟の陽泉君、といった、弥生的縄文人たる人々の影響を始皇帝は受けていた、というのが私の説であるわけです。
 まだ、その場面に至っていませんが、実母の情夫である嫪毐(ろうあい。~BC238年)の反乱の鎮圧を、始皇帝は、楚の公子である昌平君・・華陽太后に養育された
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B
・・と昌文君という甥叔に命じ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AB%AA%E3%82%A2%E3%82%A4
その翌年、呂不韋を相国から罷免した後、この2人を、それぞれ、右丞相と左右丞相に任じた(上掲の上掲、と、上掲)ことからも、始皇帝の楚人に親近感を持っているメンタリティーが窺える、というものです。

(続く)