太田述正コラム#14428(2024.8.29)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その3)>(2024.11.23公開)

 私が視聴している件のTVシリーズのプライムビデオ版ではようやく秦による統一戦争が始まったところまできました。
 ついに、韓非子が登場したけれど、「前半」でと同様、「後半」では、これまでのところの、一瞬だけの登場でした。
 その少し前、BC328年に、秦王政は、「春秋時代の秦の国都<で、>6代君主の徳公元年(前677年)から24代君主の献公2年(前383年)まで19代294年間、秦としては最も長い期間国都であった・・・雍城(ようじょう)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E5%9F%8E
で元服/即位式を挙げます。
 その少し後で、逐客令・・李斯による「諫逐客書」は、この逐客令への反駁文書
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/ShikiPP/RiShi_Kanchikukyaku.html ・・
騒動があったことを、初めて知りました。
 「鄭国<(前出)>がスパイであることを知った秦の王族らは秦王政に外国人追放令である「逐客令」を出すよう迫ります。外国人である李斯も追放対象となりました。これを聞いた李斯は秦王政に対し、逐客令の撤回を求める意見書を提出します。
 李斯は意見書の中で、秦が強大になったのは外国人の力を積極的に取り入れたからであると主張。実際、秦の歴代の国王は他国出身者でも有能な人物を登用することで国を豊かにし、王族の専横を阻止してきました。李斯の意見書を読んだ秦王政は、逐客令の発布を取りやめます。」
https://rinto.life/140958/2
というわけです。
 ところで、秦が客臣を重用するのは、諫逐客書に書かれているように、穆公(?~BC621年。在位:BC659~BC621年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
時代の、西戎の使節として秦にやってきた由余、
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/WhosWho/YU.html#YuuYo
次いで、「秦の繆公<が>晋の太子申生や公子夷吾の姉を妻に迎えることになり、 晋の献公は百里奚をその付き人として一緒に秦に送った。 百里奚は一度楚に逃亡してとらえられたが、その賢明さを聞いた繆公は人を遣り、羊の皮5枚で百里奚を贖わせた。」
http://www.maroon.dti.ne.jp/ittia/WhosWho/HI.html#HyakuriKei
という百里奚(出身地不詳)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E5%A5%9A
らの登用から始まり、秦王政が親政を始めた238年時点で、既に400年超の実績があったというのに、秦の王族らが逐客を唱えたり政が一旦はそれを受け入れたりしたことが、私には今一つ解せませんでした。
 とまれ、この頃の政にとっての最大の課題は、なんと言っても秦が統一戦争を始めるにあたって、最初に滅ぼすべきは隣国群、というか、残りの6国、の中の最弱の韓にすべきなのか最強の趙にすべきかであり、結局、韓にする
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6%E3%81%AE%E7%B5%B1%E4%B8%80%E6%88%A6%E4%BA%89 
とともに、その間、趙にも調略をかけることにしたのですね。
 政この調略のターゲットにしたのが、趙の丞相の郭開です。
 ちなみに、政の実母で、嫪毐による反乱の後、何年間か上出の雍城で軟禁されていた趙姫(ちょうき。BC280~BC246年)も、「姓および諱は共に不明」ながら、趙出身であるが故に趙姫と呼ばれている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%A7%AB_(%E8%8D%98%E8%A5%84%E7%8E%8B)
わけであり、政もこの趙の首都の邯鄲で生まれています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%AF%E9%84%B2%E5%B8%82

(続く)