太田述正コラム#14430(2024.8.30)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その4)>(2024.11.24公開)

 昨日視聴した何話かのハイライトは、秦と趙の間での下掲の2つの戦いです。↓

 「紀元前234年、秦の将軍の桓齮が秦軍を率いて平陽で趙軍を大敗させた。趙の将の扈輒を討ち取り、10万の兵を斬首した。
 紀元前233年、桓齮は秦軍を率いて東の上党に進軍し、太行山を越えて趙の深部に侵入し趙軍を破り、赤麗と宜安を占領した。秦軍が邯鄲に迫り、趙の幽繆王は北部の国境の防衛を担っていた名将の李牧を南下させ、趙の全軍を率いて秦軍を攻撃することを命じた。
 李牧率いる趙軍と桓齮の率いる秦軍は宜安付近で対峙した。激しい戦いの末に、秦軍は大敗した。
 <これを>肥下の戦い(ひかのたたかい)<という。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 「紀元前232年、秦王政は兵を大挙し、趙に侵攻した。軍は鄴城に到着し、その後太原に到着した。秦軍は狼孟と番吾を占領したが、李牧が秦軍を撃破した。さらに李牧は秦から韓・魏の国境まで領土を奪還した。
 <これを、>番吾の戦い(はんごのたたかい)<という。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E5%90%BE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

 番組では、趙の幽繆王(ゆうぼくおう。在位:BC235~BC228年。姓は嬴、氏は趙、諱は遷)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%B9%86%E7%8E%8B
の死、及び、呂不韋の自殺、を、この2つの戦いの間の出来事としていますが、幽繆王は秦の捕虜にBC228年になっていてしかも死去した時期は不肖です(上掲)し、また、番組では上出の2番目の戦いは、趙による呂不韋獲得工作が呂不韋の自殺を招いたとした上で、秦王政がこれに怒って準備不足のまま趙討伐の軍を派遣した、としていますが、この自殺、紀元前2351年です
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E4%B8%8D%E9%9F%8B
から、どちらも著しい「史実」歪曲ではあります。
 そして、番組では、韓非(BC280?~BC233年)が大活躍を始めますが、これも全て「フィクション」のようですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E
 もう一つのハイライトは、小篆(しょうてん)・・番組では秦篆・・誕生とその目的が説明される挿話です。
 「小篆<(注1)>は始皇帝が李斯に命じて籀文(もしくは大篆)を簡略化したもの、あるいは李斯の進言により当時の秦で行われていた籀文由来の文字を採用したものともいわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%86%E6%9B%B8%E4%BD%93
ところ、番組では、後者の説を採用していました。

 (注1)「小篆の起源は、一般的には<支那>最古の石刻である戦国期の「石鼓文」に用いられた書体・大篆が直接の起源と言われている。「大篆」は西周の宣王の時代、太史・籀(ちゅう)が公式文字・籀文を定めた際に編纂した書物の名であると伝えられ、籀文そのものの別名であるとされている。・・・
 始皇帝はこの小篆を権力誇示の手段として用いた。元々甲骨文の時代から文字は権力の象徴であり、それを引き継いでのものである。現に自分を讃える銘文を刻んだ「始皇七刻石」を国内6カ所に立て、大いにその権力を示した。
 また小篆は秦が「統一された法治国家」であることを示すため、国の公式証明手段としても用いられた。度量衡の統一の際、決まった大きさの分銅や枡が標準器として全国に配布されたが、これに「権量銘」と呼ばれる小篆を用いた証明文が、金属製の場合直接刻み込まれ、木製の場合銅板に刻まれて貼りつけられた。また、官吏が公式証明に用いる官印にも用いられた。
 こうして小篆は秦の国内政策の第一線を担う存在として扱われたのである。
 そのような国の意図とは裏腹に、小篆はすぐにその形を崩し始める。法治国家である秦では、下層の役人が現場で事務処理を行うことが多くなった。彼らにとって複雑な形をした小篆はきわめて書きづらいものであり、自然走り書きが多く発生する結果となった。このことが小篆の書体の単純化・簡素化を生み、やがて隷書を生むことになるのである(隷変)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%86%E6%9B%B8%E4%BD%93

(続く)