太田述正コラム#14436(2024.9.2)
<映画評論117:始皇帝 天下統一(後半)(その7)>(2024.11.27公開)
秦王政の時に残り6国で合従が成立しなかったのには、蘇秦の前例がこれら諸国においてトラウマになっていたことがあるのではないでしょうか。↓
「戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した・・・蘇秦<(?~BC284)は、>・・・戦国七雄のうち秦を除いた六国の間に同盟を成立させ、六国の宰相を兼任した。・・・
実は燕のために斉と趙の離間を図っていた。その結果、まず紀元前288年に燕・斉・趙・韓・魏の5国が合従して秦を攻めたが、5カ国連合軍は退却した。次に紀元前284年には今度は燕・趙・魏・韓・楚の5カ国が合従して斉を攻撃し(済西の戦い)、燕は復讐を果たすのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E7%A7%A6
もちろん、もう一つの選択肢としては、秦以外の6国のどれかの国が、秦に対抗すべく、残りの5国を併合することですが、この方法では、秦が、当該国の背後を直接攻撃してきたり併合対象国を援助したりして妨害するので採ることができなかったわけです。
ところで、1国だけ残った斉を滅ぼして秦は天下統一を果たすのですが、斉に対しては、秦は、秦王政の曽祖父の昭襄王の時代から、褒め殺し的戦略を採ったと言えそうです。↓
「斉秦互帝(せいしんごてい・・・)は、紀元前288年に秦と斉が盟を結び、秦が西帝、斉が東帝を称した事件。
紀元前288年10月、秦の昭襄王が西帝を自称した。そして斉の湣王へ魏冄を派遣し、東帝を称し、共同で趙を攻めるように要請した。斉王は蘇秦に問うと、蘇秦は斉王に受諾するように頼んだ。しかし、後に蘇秦は「秦王が帝号を称し、天下の各国が反対を唱えなければ、斉王は帝号を称することにした。秦王は帝号を称することで天下の各国から非難を浴び、斉王は帝号を称しなかった。また、共同で趙へ侵攻するより、暴虐ぶりで『宋の桀』と知られる康王の宋へ侵攻することが有利です」と説いた。斉王は同意し、帝号から王号に戻した。12月、呂礼は斉から秦へ派遣され、昭襄王は帝号を廃し、秦王を称した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E7%A7%A6%E4%BA%92%E5%B8%9D
秦王政は、斉に対し、番組でも示唆されていたように、褒め殺し的戦略の範疇に属する疑似同盟戦略を採り、最後の最後まで、たぶらかし続け、鮮やかに天下統一の掉尾を飾った、と、言えます。↓
「襄王19年(前265年)、襄王が死に、田建<(生没年不詳。在位:BC264~BC221年)>が即位した。即位当初は母親である君王后が摂政をし、輔政していた。
斉王建16年(前249年)、君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝が執政した。后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。田建は后勝の主張を聞き入れ、五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、軍事を強化しなかった。五国が滅亡すると、田建は秦が侵攻することを恐れ、将軍や軍隊を西部の辺境に集結した。
44年(前221年)、秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、元燕の南部から南下し臨淄へ侵攻した。斉軍は秦軍からの突然の北面からの侵攻に、不意をつかれ瓦解した。田建は降伏し、斉は滅亡した。ここに秦の中国統一は完成した。
その後、田建は身柄を共(現在の河南省新郷市輝県市)に移されたという。また、魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死したとも伝えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%BB%BA
(完)