太田述正コラム#14456(2024.9.12)
<映画評論128:レディ・マクベス(その2)>(2024.12.7公開)

 このレスコフの原作は、英訳をネット上で読むことができますが、その序文の全文を、私が既に書いたことも含まれているけれど、そのまま、掲げておきましょう。↓

 If “The Lady Macbeth of Mtsensk” is the best known of Nikolai Leskov’s works outside Russia, that is owing mainly to the opera Dmitri Shostakovich made of it in 1934. Like Soviet critics of the time, Shostakovich saw the heroine as the embodiment of protest against a corrupt and stultifying bourgeois society and therefore justifiable in her actions, if not exactly innocent. To make that reading more persuasive, he eliminated the third and most terrible of her crimes. Andrzej Wajda did not go so far in his film version, A Siberian Lady Macbeth (1962), but he did make the third victim a selfish and manipulative little creature and therefore “deserving” of his fate. Leskov’s story allows for no such simplifying social explanations. It is a dramatic portrayal of the amoral, ambiguous, elemental force of sexual passion, as intense in its heat as in its coldness. In stylistic directness and narrative concentration, it is unique among his works. He wrote it while visiting relatives in Kiev, where he was given space in the university’s punishment room. He later described how his hair stood on end as he worked on it alone in that unlikely place and swore he would never describe such horrors again. The story, one of Leskov’s earliest, was first published in Dostoevsky’s magazine Epoch in 1865. Richard Pevear
https://hudsonreview.com/2013/02/the-lady-macbeth-of-mtsensk/#.WWcVe9yVvIU

 つまり、ショスタコーヴィチは、主人公に殺された3人の中で、その最後の1人であるところの本人が何も悪くない少年、の挿話部分を除いた形の歌劇を作曲したわけです。
 (但し、その理由については、後述するように、私見は異なります。)
 この頃のショスタコーヴィチの年譜は次の通りです。↓

 「1932年 科学者ニーナ・ヴァルザルと結婚。婚約記念として書き始められた歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を彼女に献呈。8月、作曲家同盟レニングラード支部の運営委員に選出。1933年 軽音楽に関するレニングラード市の委員会の委員になる。ピアノ協奏曲第1番初演。1934年 スターリンによる大粛清が吹き荒れる情勢化にあって、レニングラード市アクチャーブリ区の区議会議員に選出される。同年は、第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺刑となった年。1930年代の大粛清は議員のみならず一般市民にまで及び、強制収容所送りや即決裁判による死刑が横行し、ショスタコーヴィチの作曲活動にも暗い影を落とす。1936年 歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』(1月)とバレエ『明るい小川』(2月)に対するプラウダ批判。5月30日、長女ガリーナ生誕。1937年 春(一説には1月)、レニングラード音楽院に講師として勤務(後に教授)。交響曲第5番を作曲、初演(11月21日)。この作品の成功により名誉を回復。1938年 5月10日、長男マクシム生誕。1939年 ムソルグスキー生誕100周年記念祭の準備委員会の委員長となる。音楽院で教授に就任。1940年5月、労働赤旗勲章受章。ピアノ五重奏曲がスターリン賞を受賞。・・・
 ショスタコーヴィチ<は、>当初、体制に迎合したソ連のプロパガンダ作曲家というイメージで語られていたが、『ショスタコーヴィチの証言』が出版されて以後、ショスタコーヴィチには皮肉や反体制、「自らが求める音楽と体制が求める音楽との乖離に葛藤した悲劇の作曲家」というイメージも加わった。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81

 (この歌劇を婚約記念として書いたことにし、実際、新婦に献呈した、というのは、ショスタコーヴィチによる、厄除けのお祓いみたいなものだ、と、これも後述することから、私は見ています。)
 また、この曲そのものに係る年譜は次の通りです。↓

 「作曲は1930年の秋に開始され、全曲が完成したのは1932年(当時26歳)のことである。経過は以下の通りである。
第1幕:1930年10月4日着手-1931年11月5日完成(チフリス<(注1)>にて)

 (注1)ジョージア(グルジア)の首都。<ト>ビリシとも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B7
 スターリンは、トビリシを流れる川の上流(西)の、それほど離れていない、ゴリ、で生まれた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA_(%E3%82%B7%E3%83%80%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E5%B7%9E)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gg-map-ja.png

 ピアノ譜は10月30日に、第2場は1931年10月7日にそれぞれ完成されている。
第2幕:1931年11月19日着手(レニングラードにて)-1932年5月8日完成(モスクワにて)
第3幕:1932年4月5日着手(レニングラードにて)-1932年8月15日完成(ガスプラ<(注2)にて)

 (注2)Gaspra。クリミア半島のヤルタの附近(西)に位置する温泉町。
https://en.wikipedia.org/wiki/Gaspra
 「当時作曲者が新婚旅行で滞在していた場所」(※)

第4幕:1932年10月末着手-12月17日完成
作曲者は3か月ないしは4か月で完成すると想定していたが、当初の予定を大幅に繰り上げて完成させた。・・・
1936年1月・・・26日にヨシフ・スターリンが側近と共にボリショイ劇場を訪れ、注目作である『マクベス夫人』を観劇した。劇場の関係者は称賛を受けることを期待して作曲者を舞台裏に待機させていたが、スターリンは第3幕の途中で席を立った。作曲者は不安に駆られつつ、別の演奏会のためアルハンゲリスクへ向かった。
 2日後の1月28日、共産党中央委員会機関紙『プラウダ』に「音楽のかわりに荒唐無稽」と題する批判的な内容の無署名記事(プラウダ批判)が掲載された。アルハンゲリスクで事態を知った作曲者は至って冷静であったが、スターリンの逆鱗に触れたことで、作曲者の身に危険が及びかねない状況となったため、本作はレパートリーから外され、以後20年以上にわたり事実上の上演禁止となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E9%83%A1%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%99%E3%82%B9%E5%A4%AB%E4%BA%BA_(%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9) ※

 スターリンの反応は、ショスタコーヴィチの予想通りだったからこそ、ショスタコーヴィチは「至って冷静であった」のである、と、私は見ています。

(続く)