太田述正コラム#14458(2024.9.13)
<映画評論128:レディ・マクベス(その3)>(2024.12.8公開)

スターリンは、このような人物でもありました。↓

 「ヨシフ・スターリンは両親の影響で幼い頃から読書好きであり、この趣味は終生続いた。彼は4万冊の本を所有していたといい、うち1万冊は彼の主要なダーチャであったモスクワ郊外の「クンツェヴォ」(または「ブリージニヤ・ダーチャ」)に所蔵していた。彼は読むのが速く、しばしば余白に多くのメモを残した。十代の頃には詩も書いたが、キャリアを積むにつれ、詩を嗜む時間はなくなっていった。
 スターリンは時に仕事から離れ、ボリショイ劇場を訪れてオペラを鑑賞したり、クレムリンの私設映画館で映画を見たりして休息を取った。スターリンは大の映画好きで、しばしば個人試写会に党の同僚を招き、まるでソビエト映画界への外国映画の配給者のようにふるまった(だが、外国映画が彼の部屋から外に出ることはほとんどなかった)。独裁者自身、映画界の有力者を任命・解任したり、「重要」な映画の制作に個人的に立ち会ったり、台本を読んだり、全映像を確認したりしていた。」
https://jp.rbth.com/history/83164-stalin-no-shumi#:~:text=%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA#:~:text=%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA

 ですから、彼は、オペラの『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を鑑賞する前に、レスコフの原作は当然読んでいた筈です。
 他方、オペラのリブレット(台本)は読んでいなかったのでしょう。
 さもなければ、スターリンは、そもそも、このオペラの鑑賞にやってこないし、席を立って途中で帰ることも無かった筈だと私は思うのです。
 では、どうして途中で帰ったのでしょうか。
 もちろん、私の想像でしかないのですが、スターリンが、このオペラでは三番目のとりわけ理不尽極まる殺人が省かれていることに気付いたからだと思うのです。
 これは、ショスタコーヴィチが、原作の帝政時代のロシア人は一見理屈付のように見えるものも含め理屈抜きの自己中の殺人を少量犯していたのに対し、このオペラが上演されるソ連時代のロシア人は理屈付のものばかりの自己中の殺人を、だからこそ大量に、犯すようになった、と、レーニンの下での赤色テロ(注3)を非難しているのであり、お前も赤色テロ的なものを続けるのだろう、と、赤色テロの主共犯者にして、これから大粛清
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%B2%9B%E6%B8%85
を敢行しようとしていたところの、スターリン、を、攻撃しているのであり、スターリンは、そう受け止めたからこそ、席を立って途中で帰ったのです。

 (注3)「ソビエト・ロシアにおいて、ボリシェヴィキおよび秘密警察チェーカーによって実行された政治的弾圧と大量虐殺、ロシア革命後の1918年9月初めから始まり、1922年まで続いたテロリズムを指す。広義には、ロシア内戦(1917-1922年)を通じて行われたボリシェヴィキによる政治的弾圧を指<す。>・・・
 歴史学者ニコライ・ザヤツ(2018年)は、1918年から1922年にかけてチェーカによって射殺された人の数は約37,300人であり、法廷により1918年から1921年に銃殺された人々は14,200人、また、チェーカーだけでなく、赤軍による処刑を含めて合計約50,000人から55,000人であると述べている。・・・
 歴史家セルゲイ・ヴォルコフ(2010年)は、赤色テロルを内戦時代のボリシェヴィキの抑圧政策全体であるとし、赤色テロルによる死者数を200万人と推定している。
 歴史家アンドレア・グラツィオージ(2010年)は、帝政時代とソビエト時代の人口統計の考察によれば、1914年から1922年までの超過死亡者数は約1600万人で、そのうち400万~500万人が軍人、残りが民間人だった。 民間人の死因の多くは、ロシア飢饉 (1921年-1922年)による飢餓、発疹チフス、流行病、スペインかぜによるもので、赤色・白色テロルや弾圧の犠牲者数は数十万人にのぼるという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E8%89%B2%E3%83%86%E3%83%AD

 (少量、大量、は、原作では殺されたのが3人、オペラでは2人、なので、私のミスプリかと思われたむきもあるかもしれませんが、自己中での殺人の対象には見知らぬ人はなりえないのに対し、理屈付の殺人は、その理屈に該当する不特定多数の人にまで及びうることから、ショスタコーヴィチやスターリンには殺されるのが大量であることが「見えた」はずである、という趣旨であり、決して私のミスプリではありません。)
 そんなスターリンが、どうして、このオペラとつけたりの後1作のショスタコーヴィチの作品群に対してプラウダに匿名批判記事を載せただけで、ショスタコーヴィチを「粛正」しなかったのでしょうか。
 恐らく、調査した結果、ショスタコーヴィチが、わざわざ、ジョージアのスターリンの生地に近い場所でこのオペラの作曲に着手し、それを、レーニンが大学を卒業し、かつ、後に十月革命を起こし、だからこそ、名前までサンクトペテルブルクからレニングラードに改名されたところの、レニングラード、で完成させた、ということの寓意性もスターリンは把握したに違いないにもかかわらず・・。
 それは、スターリンがショスタコーヴィチの音楽の才能を高く評価していて、プロパガンダ目的でその才能を利用することができると考えると共に、他方で、このオペラの狙いを的確に分かる人間は自分だけだ、というまんざら根拠レスではない自信がスターリンにはあったからではないでしょうか。

(続く)