太田述正コラム#14466(2024.9.17)
<映画評論130:Padmaavat(その2)>(2024.12.12公開)
さて、この映画は、奴隷王朝(1206年 – 1290年)、ハルジー朝(ヒルジー朝、1290年 – 1320年)、トゥグルク朝(1320年 – 1414年)、サイイド朝(1414年 – 1451年)、ローディー朝(1451年 – 1526年)、と続いたデリー・スルターン朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
中の、ハルジー朝初代のジャラールッディーン・ハルジーがモンゴルのインド侵攻(1221年 – 1320年)にさらされた(上掲)あたりから、1296年に甥のアラー・ウッディーン・ハルジー<(注3)>に暗殺され彼が第2代となり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%BC
1303年にメーワール<王国>を支配するグヒラ朝の王[ラタン・シング<(注4)>]が籠るチットール城砦(注5)を陥落させる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%BC
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%9F%8E ([]内)
あたりまでが舞台です。
(注3)1266/1267~1316年。「モンゴル帝国によるインド侵入を5度に渡って撃退し、自らを「第二のアレクサンドロス大王(スィカンダル・サーニー)」と称した。南インドに初めてイスラム勢力を拡大し、インド南部におけるイスラム教信仰の基盤を築いた。デリー・スルタン朝を「インド=トルコ人国家」から「インド=ムスリム帝国」へと方向付け、デリー・スルタン朝のインド化を進めた人物と評価されている。・・・
1310年から1311年にかけて<彼>の軍隊は・・・インド亜大陸南端のコモリン岬にまで達した。・・・このハルジー朝の南方遠征の主目的は財貨の獲得にあり、永続的な支配を意図したものではなかった。従属させた国家にはデリーへの貢納を拒むものも多く、・・・反乱が起こるたびに・・・軍隊が派遣された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%BC
(注4)?~1303年。在位:1302~1303年。「1303年、デリーのハルジー朝に首都チットールガルが包囲され、ラタン・シングはチットールガル城に籠城した。その原因はその君主アラー・ウッディーン・ハルジーがグジャラートに侵攻する際、メーワール王国内の通過を拒否したことにあった。また、メーワールはアジメールからマールワーに至る道を支配していた。また、アラー・ウッディーンはラタン・シングの王妃パドミニーに大変愛着を抱き、横恋慕しようとしたとも伝えられる。パドミニーはシンガルドゥウィーパ(スリランカ)の王女で、ラタン・シングは7つの海を渡り、多くの冒険を重ねてチットールガルへと戻ったという。ただし、これは100年以上たってから語られ始めたので、歴史家たちはこれを単なる伝説と見ている。包囲はこの年の1月から8月まで続き、ハルジー朝の軍勢は城に激しい攻撃をかけた。その間、ラタン・シングは講和を求めて降伏したが、傍系のラクシュマン・シングをリーダーに籠城して抵抗を続けた。結局、城兵はジョウハルを行い、多数の兵が戦死し、チットールガルは陥落した。ラタン・シングは生け捕りにされ、その後しばらくのうちは捕虜となっていたとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0_(%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E7%8E%8B)
パドマーヴァティー(Padmavati=ラーニー・パドミニー(Rani Padmini))。「伝承によると、パドミニーはシンガルドゥウィーパ(スリランカ)の王女で、ラタン・シングは7つの海を渡り、多くの冒険を重ねてチットールガルへと戻ったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%83%BC
(注5)「メーワール王国がその後再興するものの1535年にグジャラート・スルターン朝のバハードゥル・シャーによって城が占領された。しかし、その直後にムガル帝国が撃退した。1567年に、メーワール国王ウダイ・シング2世がムガル帝国アクバルへの服従を拒み続けたことから包囲戦が行われ落城した。この時、防御側の全ての兵士は儀式的に死兵となって突撃する saka を行い殉死し、女たちはジョウハル(自害)したとされる。1616年に講和が行われ、アマル・シングに返却された。」(上掲)
このアラー・ウッディーンの治世中にベンガル地方を除いてインド亜大陸が、一旦、緩やかながら統一された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Delhi_Sultanate_map.png
という認識は私は今までなかっただけに、この映画を見た副産物・・但し、映画の中には出てこない・・ですが、大変勉強になりました。
(続く)