太田述正コラム#14639(2024.12.14)
<皆さんとディスカッション(続x6106)/日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ2)>
<コラム#14488の訂正>(ブログ修正済)
2024.9.28東京オフ会用メモ
⇒
日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ1) ※タイトルを含め2か所
<FLkADqOE>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
<umKHdbfoクンの投稿(コラム#14637)>に関連して:
「【12/10容疑者逮捕】アメリカで起きた大手保険会社CEOの銃撃事件、どうして犯人への賞賛コメントが多い?→アメリカの保険制度の問題が浮き彫りに…「日本はまだマシ」・・・」
https://togetter.com/li/2478274
オバマケアでさえ焼け石に水だったのね。
イギリスのNHSも評判悪いし、日本が一番老人や病人に優しい国なんだと思う。
⇒日本は、縄文時代に遡る、人間主義社会だからね。(太田)
<SH>
最近、ふと気づいたのですが、11月8日以降、無料の<まぐまぐの>「みなさんとdiscussion」が配布されてこなくなっていました。何かあったのかなと思い、ブログをみたら更新はされているようなのでOK。配信方法を変えたのならそれはそれで良いのですが、ただ、配信されているはずと思われているなら、システムチェックしたほうが良いですよ。
<太田>
管理者としての私には届いていますが、SHさん以外の太田コラム・まぐまぐ読者の皆さんで、最近コラムが届かなくなった方、おられます?
<太田>
安倍問題/防衛費増。↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/83319b88adc3230533a876c4724d5af2bfeab5b9
https://news.yahoo.co.jp/articles/da69ad1a4391e78979c2d89938ec991c275af101
ウクライナ問題。↓
※11日に紹介し忘れた記事。
<なーんて言われちゃってるぞ。↓>
「ロシア軍にポクロウシク攻略の余力はあるか 檄飛ばすプーチンはシリアで面目丸潰れ・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/b501a6d9ef3745dcd17373a57de1ca9fa6b77f7c ※
「ロシア経済はダウン寸前か?「ルーブル急落」の背景、国庫を潤す側面あるも、規律崩壊の懸念・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/2b26767d808038967e7925ee6c395df00d7a3629 ※
<NATO加盟を引っ込めない限りプーチンは停戦に同意しないだろうとはいえ、そりゃないよ、トランプ旦那。↓>
「NATO加盟「支持せず」 トランプ氏発言・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/9649b1c58dcfba0cd7a2d65e7fd12e3368a71939
<よって、停戦はナシで、ウクライナは戦い続ける。↓>
「ロシア領攻撃を批判 ウクライナ「見捨てない」 トランプ氏・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/63321419f221f080ad154ef43b4436424010d0fe
ガザ戦争。↓
<シリアの大掃除、タイヘンねー。↓>
「・・・イスラエル軍が過去数日間、ダマスカスや周辺の「戦略的地域」に空爆を行っている・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/570fe0a158c5663b7f355b2d99890778f5ffb5aa
<シリアの再建、もっと大変ねー。↓>
The battle for Aleppo fractured the city along social and economic lines. Whether people here can live together again will help decide the fate of a new Syria.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2024/12/13/aleppo-syria-assad-hts-minorities-christians/
<シリアの小悪党どもの夢の跡。↓>
「「王のよう」アサド氏の大豪邸 100メートル超の地下通路も・・・」
https://mainichi.jp/articles/20241214/k00/00m/030/024000c
Syria’s ousted leader cultivated a modest image. Footage revealing hidden opulence tells a different story.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2024/12/13/bashar-al-assad-wealth/
<その夢の追求方法は、概ね金坊やと共通だったようで・・。↓>
Rebel fighters found stockpiles of addictive pills, some hidden in fruit or furniture and ready for export as part of the Assad regime’s illegal drug operation.
https://www.nytimes.com/video/world/middleeast/100000009876165/syria-captagon-pills-drugs.html
<小悪党どもの梁山泊と化したロシア。↓>
「ロシア亡命のアサド氏、モスクワなどに約20の高級マンション所有・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/516e46350044afd139c9eb1b9a73c9c369e302bf ※
<アサド家、夫唱婦子随、とは麗しい限りである。↓>
・・・Assad’s eldest son, Hafez, is a PhD student in・・・Moscow・・・- with a local newspaper reporting just last week about the 22-year-old’s doctoral dissertation.・・・
Asma “holds a British passport, so could return to the UK” instead of remaining in Russia.
”However, the USA [has] imposed sanctions on her father, Dr Fawaz al-Akhras, who is also reported to be in Russia,” she said – suggesting Asma may want to stay put in Moscow for now.
In a report by the Mail Online, neighbours were quoted as saying Asma’s father, a cardiologist, and mother Sahar, a retired diplomat, wanted to be in Moscow to “console” their daughter and son-in-law.
Assad and his wife have three children: Hafez, the PhD student, Zein and Karim.・・・
Bashar and Asma maintained “close patronage relationships with Syria’s largest economic players, using their companies to launder money from illicit activities and funnel funds to the regime”.
It also said that Asma had “influence over the economic committee that manages Syria’s ongoing economic crisis” – and had made key decisions on Syria’s “food and fuel subsidies, trade and currency issues”.
She also exerted influence over the Syria Trust for Development, through which most foreign aid for reconstruction in regime-held areas was channelled.
In 2020, then-Secretary of State Mike Pompeo alleged that Asma had “become one of Syria’s most notorious war profiteers” with the help of her husband and her family.
Another senior Trump administration official described her as the “business head of the family” and an “oligarch” who had been competing with Bashar’s cousin Rami Makhlouf.・・・
https://www.bbc.com/news/articles/cp31yj8wqqno
それでは、その他の国内記事の紹介です。↓
この限りにおいては同意。↓
「・・・トッド 「変化よりも安定を好む」のは日本の強みでもあり弱みですね。ただ現在、「変われない」のは、実は西洋諸国にも言えることです。フランスもドイツも変われない。米国の覇権下にあることが主な要因です。それ以上に問題なのは、支配国である米国自身が「変われない国」になっていること。トランプが再選されたことで何かが大きく変わるかと言うと、そうではない。知的面でも経済面でも「退化(デカダンス)」が続くでしょう。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/07b90c075bb37299bd6ff93bb1b3bbeda8090240
日・文カルト問題。↓
<いや、むしろ、国全体がたるみきっている、と、言うべきか。↓>
「・・・事態を実際に動かしたのは、市民によるデモではなく、深夜に危険を犯して国会議事堂に駆け付けた国会議員と、更には軍法会議にかけられる危険をも犯して、国軍司令官である大統領に「抗命」した軍人たちだった。つまり、今回の韓国の危機を救ったのは、これらの国家機関を構成する人々、さらには戒厳令布告にもかかわらず報道を続けたメディアを構成する「エリート」たちの矜持だったことになる。・・・」
https://news.yahoo.co.jp/articles/4b8e94d412d0e79838b66081059b8e4e35b9674e ※
「・・・国家情報院の第1次長は、非常戒厳当日に尹大統領から直接連絡を受け、「政治家やメディア関係者を逮捕せよ」と命じられた、と暴露した。次長は命令について、「あり得ない。狂気の沙汰だ」として命令を実行しなかったと明かした。
その逮捕対象者のリストには、野党議員のほか、尹大統領の検察時代の後輩でもあり、与党「国民の力」の韓東勲(ハン・ドンフン)代表までが含まれていたという。・・・
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E9%9F%93%E5%9B%BD-%E4%BC%8A%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E3%81%8C-%E5%9B%9B%E9%9D%A2%E6%A5%9A%E6%AD%8C-%E3%81%A7%E3%82%82%E5%BC%B7%E6%B0%97%E3%81%AA%E3%82%8F%E3%81%91-%E9%9D%9E%E5%B8%B8%E6%88%92%E5%8E%B3%E3%81%A7%E8%AC%9D%E7%BD%AA%E3%81%8B%E3%82%89%E4%B8%80%E8%BB%A2-%E9%80%80%E9%99%A3%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84-%E6%98%8E%E6%97%A5%E5%BC%BE%E5%8A%BE%E6%8E%A1%E6%B1%BA/ar-AA1vNcwb?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=41868e58443b4274b634812e0be4817a&ei=29
「・・・金龍顕・・・氏は、尹氏が2022年3月の大統領選に当選する前から尹氏の陣営関係者に耳打ちしていた。政権への風当たりが強まったら「戒厳令を発動して全て片付ければ良い」。今年4月10日の総選挙で野党が躍進し、政権攻撃を強めると尹氏が戒厳令を口にする回数が増えた。呂氏は検察にそう供述した。
決行2日前、前国防相から指令下る
尹氏は8月12日、金龍顕氏を国防相に抜てきした。以降、戒厳令が本格的に検討された。
情報をつかんだ野党は国会で 執拗(しつよう) に追及した。「戒厳令を宣布するといううわさは本当か」。申源湜大統領府国家安保室長は悲鳴交じりに答弁した。「根も葉もない話はもうやめてください」
しかし、現実となった。・・・
李鎮雨(イジヌ) 首都防衛司令官は隊員に「安全のため銃器は置いたまま任務を遂行せよ」と指示した。
趙志浩警察庁長官には尹氏から6回電話が入った。「国会議員を逮捕しなければならない」
情報機関・国家情報院(国情院)の洪壮源第1次長も尹氏から「この機会に全て捕まえて整理しろ」と言われたと国会情報委員長に説明した。しかし、 趙太庸(チョテヨン) 国情院長は「政治家逮捕」という大統領の指示は絶対ないと断言した。洪氏は6日付で解任された。
どちらが真実か不明だが、「指示」は現場の判断で守られなかった。
郭陸軍特殊戦司令官は尹氏から電話で「早くドアを壊して中にいる人を引っ張り出せ」と指示された。金国防相からも同じ指示を受けたが従わなかった。
陸軍参謀総長は、郭司令官からスタンガンの一種であるテーザー銃や空砲を使うよう要請されたが、現場の隊員には使うなと指示した。・・・」
https://www.yomiuri.co.jp/world/20241213-OYT1T50259/
<ガセ記事っぽいな。↓>
「尹錫悦大統領、戒厳令に失敗も根強い支持者・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E7%8B%AC%E8%87%AA-%E5%B0%B9%E9%8C%AB%E6%82%A6%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98-%E6%88%92%E5%8E%B3%E4%BB%A4%E3%81%AB%E5%A4%B1%E6%95%97%E3%82%82%E6%A0%B9%E5%BC%B7%E3%81%84%E6%94%AF%E6%8C%81%E8%80%85-%E9%9F%93%E5%9B%BD%E3%81%A7%E5%BA%83%E3%81%BE%E3%82%8B-%E4%B8%8D%E6%AD%A3%E9%81%B8%E6%8C%99-%E7%96%91%E6%83%91-%E5%BD%93%E9%81%B8%E3%81%97%E3%81%9F-%E3%83%8B%E3%82%BB%E8%AD%B0%E5%93%A1%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%82%82%E6%B5%81%E5%87%BA/ar-AA1vN3bC?ocid=msedgntp&pc=U531&cvid=41868e58443b4274b634812e0be4817a&ei=37
<だって、こんなカンジなんだもんな。↓>
「尹大統領の支持率11%また最低更新…国の力24%、共に民主40%・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/327377
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<邦語媒体より。
欠席だけで態度表明をする名人、習ちゃん。↓>
「中国主席、欠席の見通し 来月のトランプ氏就任式・・・」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2024121300258&g=int&utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=link_back_edit_vb
「「南京事件」から87年、習近平主席は記念行事を欠席・・・」
https://www.msn.com/ja-jp/society-culture-and-history/history/%E5%8D%97%E4%BA%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6-%E3%81%8B%E3%82%89%EF%BC%98%EF%BC%97%E5%B9%B4-%E7%BF%92%E8%BF%91%E5%B9%B3%E4%B8%BB%E5%B8%AD%E3%81%AF%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A1%8C%E4%BA%8B%E3%82%92%E6%AC%A0%E5%B8%AD-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E4%BD%BF%E9%A4%A8%E3%81%AF-%E5%8F%8D%E6%97%A5%E6%84%9F%E6%83%85%E3%81%8C%E9%AB%98%E3%81%BE%E3%82%8A%E3%82%84%E3%81%99%E3%81%84-%E3%81%A8%E6%B3%A8%E6%84%8F%E5%91%BC%E3%81%B3%E3%81%8B%E3%81%91/ar-AA1vMVaH?ocid=BingNewsSerp
<太田>
–Windows–
表記のアップデートを行った後にX299パソコンを起動したら、初めて、「セキュリティ設定により、このドライバー<・・iqvw64e.sys・・>が脆弱なドライバーとして検出され、読み込むことができません。このドライバーを読み込むには、設定を長征する必要があります」という警告表示がポップアップした。
で、「詳細情報」をクリックして下掲が開いたが、意味分からず。
https://learn.microsoft.com/ja-jp/windows/security/application-security/application-control/app-control-for-business/design/microsoft-recommended-driver-block-rules
一人題名のない音楽会です。
白鳥2曲の編曲集です。
Tchaikovsky Swan Lake Suite 指揮:Sylwia Janiak-Kobylińska オケ:Symphony Orchestra of the Feliks Nowowiejski Music School in Gdansk, Poland 23.23分
https://www.youtube.com/watch?v=-tzvebu6U08
Saint-Saëns/Godowsky Le Cygne ピアノ:Cyprien Katsaris 2.32分
https://www.youtube.com/watch?v=Dbyu4Qh0YYA
–日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ2)–
目次:
≪備考≫
≪(1)人間主義」について≫
◎アングロサクソン文明の人間主義的性
◎プロト欧州文明の非人間主義的性
〇プロト欧州文明本体
〇その他
・スコットランド
・ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィア
◎ミノア文明も人間主義社会だった
◎チャタル・ヒュユクも人間主義社会だった
◎ケルト社会は人間主義的社会だった
◎ちなみに、ユダヤ人は弥生人なのだ
◎プロト漢人文明黎明期・・二里頭文化/殷・・も人間主義社会だった!
・始めに
・漢字の起源は二里頭文化/殷
・二里頭文化/殷の人間主義性
・周の弥生性
・孔子にとっての仁
・結論
≪「(2)集団主義・非集団主義」について≫
≪参考:私の「日本は人間主義的社会」説の類似諸説≫
◎微修正した私の説(太田述正説)
◎グレゴリー・クラーク説
◎山本七平説
◎浜口恵俊説
◎木村敏説
≪備考≫
本稿は、「日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から(メモ1)」
https://www.ohtan.net/blog/archives/33818
の続きであり、「日本のユニークさと普遍性–世界史の観点から」
https://www.ohtan.net/blog/archives/33399
中の目次で言うと下掲部分↓の注釈・補足ということになる。
2 私独特の用語の紹介
(1)人間主義
(2)集団主義・非集団主義
(3)日本文明/プロト日本文明
(4)日本文明モード転換論
(5)日本における理念
(6)日蓮主義(拡大日蓮主義)
しかし、結果的に、2(1)及び(2)、並びに(3)の一部、だけに係るメモになってしまったことを最初にお断りしておく。
≪「(1)人間主義」について≫
◎アングロサクソン文明の人間主義的性
アングロサクソン文明(イギリス文明)と日本文明は、現存するたった二つの人間主義的文明群なのだが、アングロサクソン文明が人間主義的文明となった経緯は以下の通りだ。
(今回、アングロサクソン文明の成立経緯についても、粗々ながらも併せ追究したのは、今までそれを怠っていたことに忸怩たる思いがあったからだが、直接のきっかけは、G・クラーク本シリーズに取り組んでいる時に、彼に対して、日本文明について論う前にわが身・・アングロサクソン文明・・を省みてモノを言え、と叱咤したくなったからだ。愚著を読むこともあながち時間のムダではないということだ。)↓
「ブリトン人の神話は<残されていないので>、・・・アイルランド神話で「近似」させることにした・・・
ブリトン人を含むブリテン諸島の原住民<は、単純化して言えば、ずっと以前にも触れたことがあるが、>・・・バスク人<だった。>・・・」(コラム#14554)
そのことを、もう少し詳しく見てみよう。
地理的意味での欧州における人口構成の変化は次の通りだ。↓
氷河時代より後の住民たる狩猟採集民(α)・・恐らく人間主義者達(太田)・・
→新石器時代における7000年前の近東発の農業民(β)
→青銅器時代における5300年前(注1)のステップ地帯からの牧畜民(印欧語族)(γ)
(注1)https://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2019-07-19-1.html
銘記されるべきは、欧州中、唯一、バスク地方においてのみ、α>β、の形の混血のバスク人(Δ)となったところ、その地理的隔絶と文化的特異性から、バスク人は、γとは殆ど混血しないまま、彼らの間で非印欧語が引き続き用いられて現在に至っていることだ。
https://www.bbc.com/news/science-environment-34175224
地理的意味でのイギリス(England)にも、(氷河が後退した後にだが)αがいたが、そこへβが6000年前に欧州からやってきてαと混血することなくαを駆逐した。
次いで、4500年前に、γが欧州大陸経由でやってきて、石のストーンヘンジを作り、やがて住民の遺伝子の9割がβのものからγのものへと置き換わった。
次に、青銅器時代における3300~2800年前の500年間に、当時ガリアにも住んでいたところの、αを先祖に持つ割合が多いβという特異な人々であるところの、上出のバスク人(Δ)・・と思われる人々(太田)・・がブリテン島にやってきた。
そして、鉄器時代の3000~2900年前の間にブリテン島南部・・地理的意味でのイギリス・・の人々の半分が彼らによって置き換わった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Historical_immigration_to_Great_Britain
https://en.wikipedia.org/wiki/Bell_Beaker_culture
ところで、「<バスク人(△)の住むスペインの>バスク<地方は>、・・・現在まで、一貫して、女性優位の社会<であり続けた。>」(上掲)
また、「ケルト人<(γ’)>・・・においては主神こそ不在ながら女性神群が男性神群より優位にあった、と言えそうだ。
<で、>私は、バスク人<(Δ)>の一部が<メキシコ暖流に包まれているおかげで温暖でかつ水産物が豊富でかつ農業適地の多い大>ブリテン・・・島を目指している途中で北西欧州<大陸>の<非ケルト人たる>印欧語族<(γ)>に文化的痕跡を残し、その結果、その後、<2600年前>から<2300年前>までの間に同地に<新たに印欧語族(γ)中の>ケルト人<(γ’)>が拡散・・・してきた時に<、今度はケルト人がこの>北西欧州<大陸>先住印欧語族<(γ)>の文化の影響を受けて、女性神群が男性神群より優位な文化を形成した、と、見るに至っている。
<同じく>印欧語族<(γ)である>ギリシャ人のギリシャ神話にも、また、その影響下に形成されたところの、同じく印欧語族<(γ)>であるローマ人のローマ神話にも、それぞれ、主神たる男性神のゼウス、ユーピテル、が存在<し、また、やはり同じく印欧語族(γ)であるゲルマン人の北欧神話にも、主神たるオーディンが存在>することから、ケルト人<(γ’)>の神話にも、もともとは主神たる男性神が存在したと思われるところ、それが、女性神を主神とするバスク人<(Δ)>文化の痕跡の影響を受けて、上述のような形へと変容を遂げたのではな<かろうか。>」(コラム#14556)
「さて、ブリテン諸島にはるばるバスク地方からやってきて住み着い<てい>たバスク人<(Δ)>達は、北西欧州<大陸>と経済的/文化的な密な交流<を引き続き行っていた>た筈であり、就中、<その後、>北西欧州<大陸>の主力民族<とな>ったケルト人<(γ’)>の文化的影響の下、その文化を(<地理的意味での西欧の>当時のリンガフランカたるケルト語の採用を含め)ケルト化し、その際、北西欧州のケルト人が本来は男性の主神を戴いていたのに女性神達の優位の下の男性神達と女性神達との並立へと変わったことを知り、<かつ、>北・東・南欧州の大部分の諸民族<(γ)>は男性の主神を戴いていることも知り、主体的に、自分達のそれまでの<汎神論に立脚した>女性主神制を大修正し、新たに(汎神論に立脚した)男女両主神制を採用することにした、というのが、私の最新の仮説なのだ。
[なお、イギリスに渡来したバスク人(Δ)は、先住の印欧語族の神話にも同じく主神たる男性神が存在していて、その影響を受けた方が大きいのではないか、という疑問を持つむきもあるだろうが、ストーンヘンジの建設・維持が、β期、γ期、Δ期の3つの期にまたがっていて、その間、同じ場所で似た形状のもの・・但し、β期は木製・・が建設・維持され続けたということは、ストーンヘンジの目的について所説あれど、どの説であれ、目的の中に宗教的な含意もあることを否定するものが存在しない以上、しかも、主神の存在を示唆するような含意があると指摘するものも皆無である以上、
https://en.wikipedia.org/wiki/Stonehenge
かかる疑問は退けられるべきである、と、考える。
また、紀元前の時点でのバスク人は、先住民のいる大ブリテン島にまで遠路はるばる渡来したことからすると若干の弥生性を認めざるを得ないので弥生的縄文人、ケルト人及びケルト化したブリトン人(ケルト化したバスク人等)は、それぞれの、ローマに対する軍事的抵抗からして縄文的弥生人、といったところか。
更に、プロト日本文明回帰中の日本文明下の日本人が非集団主義である(後述)ことを踏まえれば、ブリトン人は、非集団主義とまでは言えなくても、非集団主義的ではあったのではなかろうか。]
その後、北西欧州<大陸>は全てローマに征服され、北西欧州<大陸>のケルト人<(γ’)>たるガリア人はローマの強い影<下>で男性主神制に戻り、更にキリスト教化して男性一神制となるが、ブリテン諸島のバスク人<(Δ)>達は自分達流の上述ケルト文化を守り続け、それは、その後<43年に>ローマに征服された大ブリテン島主要部<(南東部)>においてすら、<410年の>ローマの撤退と<5世紀央から始まったアングロサクソン進出
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Anglo-Saxon_England
>下でも基本的に変わらず、<アングロサクソンが>唯一神を戴くキリスト教化されてからですらそうだった・・だからこそイギリス人はキリスト教に一貫して違和感を覚えたまま現在に至っている・・と。
<アングロサクソン進出の直前の時点における、ブリトン人のキリスト教観を示していると考えられるのが、ブリトン人神学者のペラギウス(Pelagius。354?~418年)の神学であり、原罪を否定し、人間は、本来性善であるとし、その自由意思に基づき、禁欲を通じて救済されうると唱え、415年に宗教会議で異端宣告がなされている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pelagius >
とりわけ、大ブリテン島の<ケルト化したバスク人(Δ)とその影響を受けた印欧語族(γ)ないしこの両者の混血から構成される>ブリトン人達<や、この大ブリテン島での成り行きに影響を受けてやはりケルト化した小ブリテン島(アイルランド)の印欧語族(γ)>中の大ブリテン島の者達<中、ローマの支配下に入ったその全部やアングロサクソン支配下に入ったその大部分の者達>は、ケルト文化を維持することが矜持化した結果、<イギリスでは、>アイルランド<やスコットランド>に比して、ケルト文化<が>より強固に堅持され<ることとなっ>た、とも。
以上、長々と・・・述<べ>てきたが、その目的は、アングロサクソン文明がプロト欧州文明と<は>異なった文明になった最大の理由がそこにある、と、私が見るに至っているからだ。
両文明の<違いのうち>最大の<もののうちの一つ>が、前者が経験論、後者が合理論・・・、に立脚している点にあることに異論は余りないだろう。
その上で<だが>、主神が一人である(イギリスを除く)欧州が合理論<(演繹主義)>と親和性があり、主神が二人である(上に汎神論/アニミズム的であり続けた)イギリスが経験論<(帰納主義)>と親和性があるのは当然<ではないか>、と、私は思うのだ。
<すなわち>、イギリス以外の地理的意味での欧州では、神ご一人の意思で整然とあらゆる事象が動いていくと考えるのに対し、地理的意味での欧州においてイギリス<でのみ>、(両主神を中心とする汎神の)諸力が作用しあった結果として諸事象が動いていくと考える、と。」(コラム#14558)
で、このブリトン人をゲルマン人たるアングロサクソン人(アングル人/サクソン人/ジュート人)が支配する形で成立したアングロサクソン人・・このほか、その少し前に、ゲルマン人である可能性が高いベルガエ人(Belgae)、すなわち、「ガリア(現在のフランス、ベルギー、スイス他)の内の北東部を指す古代ヨーロッパの地名であ<り>、ベルガエに住む部族を総称してベルガエ人(ベルガエ族)と呼ぶ<が、>ライン川に面した地区であるため、元々はゲルマン系の部族とも考えられている<ところ>、ベルギー王国はこのベルガエの故地より名称を得ている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%82%A8
ベルガエ人、が、大ブリトン島にやってきている
https://en.wikipedia.org/wiki/Historical_immigration_to_Great_Britain (前掲)
し、アングロサクソン文明成立後だが、793年から1066年までノース人とデーン人からなるヴァイキングの襲撃や部分的/全面的支配があり、引き続きヴァイキングの流れを汲むノルマン人による征服がある
https://walk.happily.nagoya/medieval-britain/viking-expansion-england/
が省略する・・のアングロサクソン文明の基調が経験論的になった(コラム#14548)、と見るわけだ。
(当然、アングロサクソン文明は、ブリトン人文化における一神教のキリスト教に対する微妙な違和感もまた引き継いで引きずっていくことになる。)
で、同質のアングロサクソン同士の、もしくは近質のウェールズやアイルランドにおける、ないしは、に対する、または、やや近質の(スコットランドを含む)北欧州大陸や北西欧州大陸の諸勢力に対する、ところの戦争状態の継続、が、ハードやソフト面の技術革新を促し、これに、ギリシャ合理論科学の影響の賜物もあって、アングロサクソン文明において、やがて経験論科学が確立する運びになる、とも。
もとより、アングロサクソン人地域がアルフレッド大王(Alfred the Great。849~899年。ウェセックス王:871年~、アングロサクソン人の王:886頃~899年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B
によって統一されると、彼が人間主義的統治を行い(コラム#3954)、爾後、それがイギリスにおける統治のデフォルトとなるに至ったことも、アングロサクソン文明の人間主義性の賜物だ。
さて、イギリスのアングロサクソンたる支配層は、内外戦争状態が継続したこともあり、そのゲルマン性に由来する弥生性を失わないまま、(私の一般用語たる)弥生人の全てに共通するところの、首長(軍事指導者)公選制、及び、有事の固い組織とそれと(ゲルマン人の場合は)コインの裏表の関係にあったところの、平時の個人主義、とを維持し続け、この公選の場たるThingを発展させることによって、事実上世界最初に、近代議会(Parliament)を生んで議会主権制を確立させ(コラム#14522)、かつまた、個人主義の論理的帰結たる資本主義経済を確立させ、海賊的商業や冒険目的で全世界に進出し、イギリスを世界帝国へと発展させ、人類最初の世界覇権国にすることに成功した。
このようにして、イギリスでアングロサクソン文明が成立するに至ったわけだ。
(当然、アングロサクソン文明はブリトン文化の平和性(注2)を引き継がなかった。
(注2)「<ブリトン文化下において、>砦は<存在したが、それは>、市場用や社交用に用いられた可能性を否定できない。
いずれにせよ、砦は、ローマ軍の侵攻の際には殆ど役に立たなかった程度の代物だった。・・・
以上を踏まえ、(日本列島の弥生人/縄文人が人間主義を基本的に維持したのと似て、)大ブリテン島のブリトン人達は、汎神論的背景下での男女両主神からなる神話に基づく信仰に基づき、人間主義「的」であった、と、私は見るに至っており、彼らの間の戦争があったとしても、それは「可愛いもの」だったのではなかろうか。」(コラム#14590)
しかし、「大ブリテン島に渡来したゲルマン人(アングル人/サクソン人/ジュート人)<、すなわちアングロサクソン、の方>も、<彼らが>支配することになったブリトン人の影響を受けて、一つには、ゲルマン神話由来の戦争の自己目的化を取りやめ、彼我の人的・物的損害を抑えつつ最大の利得が得られる戦争のみを遂行するよう心掛けることになり、もう一つには、かかる戦争のための訓練<を兼ねた>余暇の楽しみとして、戦争や戦闘を模した種々のスポーツを生み育てることになった、と考えられるところ、やがてこれ<も>アングロサクソン文明の特色の一つとなった<。>」(コラム#14590))
また、この過程で、アングロサクソン文明の挑戦下、キリスト教文明たるプロト欧州文明は同じくキリスト教文明たる欧州文明へと変貌を遂げることになる。
(なお、ウェールズとアイルランドは、イギリスよりもアングロサクソン支配下に入るのが遅れたけれど、最後まで弥生性が不足していて、例えば、議会的なものも統一国家的なものも、なかなか成立せず、そのため、結局、まずウェールズが、次いでアイルランドが、イギリスに征服され、併合され、植民地化されることになる。
https://en.wikipedia.org/wiki/Wales
https://en.wikipedia.org/wiki/Ireland )
なおなお、アングロサクソン及びベルガエ人の出身地である、ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィア、は、私見では、このアングロサクソン文明の強い影響を受け、更には同文明成立後も、イギリスに志向したところの狭義、広義のヴァイキング準ヴァイキングの出身地がデンマークとノルウェーであったことから、これらの地域は準アングロサクソン文明地域となり、だからこそ、イギリスのウィクリフ(John Wycliffe。1324~1384年)に始まるところの、事実上の脱キリスト教運動たる宗教改革運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%95
の結果生まれたプロテスタンティズムが、大ブリテン島全体、及び、ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィアに普及する
https://ywl.jp/content/NUMP8
のだ。
この、アングロサクソン文明、準アングロサクソン文明、に加えて、(プロト日本文明に回帰しつつある)日本文明、の諸国だけが、現存する人間主義的社会であるところ、私見では、狩猟採集時代の人類社会は、それぞれの規模は小さかったものの、基本的にその全てが人間主義社会であったというのに、人間主義社会が絶滅したのは、弥生性なくして農業革命後に出現して弥生性を帯びた非人間主義社会の脅威に対抗できなかったこと、と、対抗するためには自らも弥生性を帯びた人間主義的社会へと変貌を遂げる必要があったところ、弥生性と人間主義性(縄文性)とのバランスをとることが容易ではなかったからだ。
現存する人間主義的社会が押しなべて、その成人が高度な能力を有していること(コラム#14633)が、この「バランスをとること」をかろうじて可能にしている、ということではなかろうか。
◎プロト欧州文明の非人間主義的性
〇プロト欧州文明本体
欧州史を振り返ってみると、450年より後に亡くなった、フランク人のサリ族の支配者がクロディオ(Chlodio)であった時、
https://en.wikipedia.org/wiki/Chlodio
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E7%8E%8B%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7 ※
から、the Germanic Franks ruled over an increasing number of Gallo-Roman subjects.
https://en.wikipedia.org/wiki/Francia
がなされ、その少し後の508年<に、クロディオの曽孫と思しき、メロヴィング朝創始者で全フランク人の王(※)・・>・・・<クローヴィス(>Clovis<)1世の>・・・baptism<が、>・・・, largely at the behest of his wife, Clotilde<、挙行された>・・・. The adoption by Clovis of Catholicism (as opposed to the Arianism of most other Germanic tribes) led to widespread conversion among the Franks, and eventually to religious unification across what is now modern-day France, the Low Countries and Germany. The alliance between the Franks and Catholicism eventually led to Charlemagne’s crowning by the Pope as emperor in 800, and to the subsequent birth of the early Holy Roman Empire in the middle of the 10th century.・・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Clovis_I
このような、弥生人たるゲルマン人、が、普通人たるローマ人およびローマ化した原住民、を、支配する階級制、と、ローマ法王が仕切るキリスト教及びそれと親和性を有するところの演繹主義、とが、プロト欧州文明の二大特徴なのだ。
他方、アングロサクソン文明は、弥生人たるゲルマン人、が、弥生的縄文人たるブリトン人、を、支配するも階級制ならぬ階層性に立脚した議会主権制、と、平時の個人主義/資本主義、と、(汎神論的、反キリスト教的含意を有する)経験主義、とを三大特徴とする。
すなわち、両者は、ゲルマン人が支配層、という点だけが共通であるところの、別個の文明である、というのが、私のかねてよりの主張であるわけだ。
(ちなみに、ゲルマン人の平時の個人主義は、イギリスでは、基本的に島国で外からの敵の脅威が余り高くなかったこと、かつまた、支配したブリトン人が弥生的縄文人であったことから、内からの敵への備えもさほど必要なかったこと、更には、個人主義がブリトン人の非集団主義的傾向(前述)とも折り合いがよろしかったであろうこと、から、維持されたのに対し、欧州大陸西部においては、常続的に内外からの敵に対して有事即応体制をとらなければならなかったことから、失われた、と見たいところだ。)
欧州文明は、プロト欧州文明が、誤解したアングロサクソン文明の総体継受を試みた結果変貌を遂げて成立したものであり、中南米亜文明とロシア亜文明は、プロト欧州文明の互いに異なった堕落親戚文明であって、その堕落度はロシア亜文明の方が大きい、と、見ている。
米国文明は、アングロサクソン文明と欧州文明とのキメラ文明である、とも。
〇その他
・スコットランド
スコットランド(とアイルランド北部)には、ローマ人等の欧亜語族(γ)からなるローマ軍に対抗できるくらいの、従って、同じく欧亜語族(γ)たるゲルマン人に匹敵する弥生性を帯びたところの、ピクト人とローマ軍が呼んだ人々、が住んでおり、ローマ軍は、ピクト人の人口がわずかであったにもかかわらず、その征服を諦めざるを得ず、長城を作り、大ブリテン島南部の支配だけに専念することになったわけであり、そんなピクト人であったからこそ、彼らは、その後の5世紀のアングロサクソンの侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%BA
も、8世紀末からのヴァイキングの侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3%E4%BA%BA
も、現在のスコットランドの領域の一部を占領されるだけで概ね跳ね返すことが出来たところ、
https://en.wikipedia.org/wiki/Picts
その間の5世紀にアイルランド北部からスコットランド西部に渡来したところの、同じく強い弥生性を帯びたところの、スコット人(やはりγ)、の勢力と合併して、846年に現在のスコットランドの領域の大半を占めるアルバ王国を成立させ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%80%E7%8E%8B%E5%9B%BD
それがスコットランド王国となり、17世紀末まで基本的にイギリスと並立を続けることに成功する。
私見では、このようなスコットランドは、バスク人(Δ)による直接的間接的なケルト化の影響を余り受けなかった(注3)ところの、上澄みもそれ以外も弥生的な(、つまりはほぼ全員が弥生人である)社会であり続けたものの、その弥生性がバイキングほど強くなかった上、人口が少なく、しかも、地理的意味での欧州の辺境に位置していて、その上、強力な隣国のイギリスの軍事的脅威に常続的に晒されていたこともあり、領土拡張や海外雄飛ができなかった。
(注3)但し、スコット人が、ケルト系言語であるゲール語をスコットランドに持ち込んだところ、現在でも、なお、スコットランドの一部でこのゲール語が用いられている。
ちなみに、スコットランドのゲール語は、「アイルランドのゲール語(アイルランド語)に酷似するが、文字、文法、用法、単語のいずれも違いがある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB%E8%AA%9E
他方、このスコットランドは、イギリスと接壌していたこともあり、欧州大陸部諸国/諸地域よりも早い時期からアングロサクソン文明の継受を開始することになり、イギリスとの17世紀初頭の同君連合、18世紀初頭の合併を経て(コラム#省略)、現在、ほぼアングロサクソン文明化している。
・ベネルックス/ドイツ北部/スカンディナヴィア
既述。
◎ミノア文明も人間主義社会だった
これに気付かされたのは、G・クラーク愚著内の記述のおかげだ。。
私は、比較的最近、その記述を次のように紹介した。↓
[B.C.2000頃~B.C.1400年頃クレタ島で栄えた青銅器文明の
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%A2%E6%96%87%E6%98%8E]
「ミノア文明のフレスコ壁画には一人の兵士も、一人のいかめしい顔をした支配者も登場しない。
登場するのは良い暮らしを満喫している幸せで平和な人々ばかりだ。
これもフェニキア人の社会にそっくりだ。
フェニキア人は戦いよりも交渉に長けており、陸軍を持っていなかった。これは当時の地中海世界では異例のことだった。
フェニキア人は周辺の人々と融け合うことを好<み>、最大の交易相手であ<り、かつ比較的侵略的でなかったところの、古代>エジプトの文物・習慣<を>特に好んで取り入れた<ような人々だった>。」(コラム#2108)
「日本の特異性は、思想的には進んだ国でありながら比較的侵略的でない中国の陰におかれていたという点にある。・・・
おそらく歴史上、これに似た唯一の例はミノア文化の中心地クレタであろう。」(G・クラーク『ユニークな日本人』より。(コラム#14532(未公開))
◎チャタル・ヒュユクも人間主義社会だった
ミノアつながりで、「発見」したのが表記だ。↓
「チャタル・ヒュユク<は、>・・・アナトリア地方南部、現在のトルコ共和国、コンヤ市の南東数十km、コンヤ平原に広がる小麦畑をみおろす高台に位置する新石器時代から金石併用時代の遺跡である。その最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられ、・・・上層は、青銅器が出現するハラフ期(4300 B.C.頃)並行とされ全体的にやや新しい。・・・
チャタル・ヒュユクの人々は、社会的な階層分化がなされず、相対的に平等社会であったと思われる。はっきりと王や神官が使用したことを想起させる特徴をもった家屋が未だに発見できないからである。・・・男性も女性も食物を平等に分け合い、社会的な階層としては平等であった。チャタル・ヒュユクの上層においては、人々は農業を行い家畜を飼っていたことが明らかになっている。・・・小麦や大麦の他には、エンドウマメ、アーモンド、ピスタチオや果物などが栽培されていた。牛や羊の骨が見付かっているのは、動物の家畜化の始まった証拠として考えられている。しかしながら、チャタル・ヒュユクの人々にとっては、狩猟で得られる動物の肉はなお重要な食料であり続けた。土器を作り、黒曜石で石器を作ることが主要な「工業」であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A5%E3%83%A6%E3%82%AF 」(コラム#14542(未公開))
補足するが、チャタル・ヒュユクでは敵からどころか猛獣からの防御すら顧慮されていたとは思えない。
https://note.com/mitimasu/n/n41e09ab1040a
その上で、比較的最近、次のように記した。↓
「原始共産制・・私の言う(人間主義を基本とする社会や人間主義的社会とは異なるところの)人間主義社会・・として、ここでは、ミノア文明社会こそ挙げられていないけれど、その代わりに、(私にとっては定番の)インダス文明社会のほか、チャタル・ヒュユク社会、と、初期ヘブライ(ユダヤ)社会、が、挙げられている。
縄文社会が挙げられていないのは、不思議ではないが・・。
なお、<日本の>定着的狩猟採集社会であった縄文社会以外は、全て農業革命後の農業社会群だ。
チャタル・ヒュスク社会では、狩猟も行われていたという点で、縄文社会と似通っている部分があるが、初期ヘブライ社会が原始共産制社会たりえた・・但し、例外的に弥生性を帯びていた(後述)・・のはどうしてかは究明される必要があるところ、さしあたりの仮説としては、それが宗教共同体であったから、ではなかろうか。
だからこそ、(キリスト教はユダヤ教の分派であるところ、)初期キリスト教社会もまた、原始共産制社会であった(このウィキペディア)のである、と。
また、ピタゴラスが率いたピタゴラス教団も、原始共産制社会であった(このウィキペディア)ところ、それも、それが(ユダヤ教系統ではないけれど)教団であったからだから、と、言えよう。」(上掲)
なお、補足だが、コラム#14542を書いた後に早くも考えを一部改め、現在では、ピタゴラス教団が人間主義「団体」であったことは引き続き認めつつも・・但し、生産活動を行ってはいなかったようなので、人間主義「社会」とは認めがたい・・
https://en.wikipedia.org/wiki/Pythagoras
、初期ヘブライ(ユダヤ)社会は人間主義社会ではなかったと見るに至っている。
その理由は、ユダヤ人が、私の言うところの弥生人であったことに気付いた(後述)からだ。
◎ケルト社会は人間主義的社会だった
既に触れたが、改めて。
「ケルト神話においては、<ヤマト王権時代に確立した>日本神話と違って<世界の誕生と日本の誕生といった>二段階構成にはなっていないが、神が最初から複数(<しかも>、男女2神)であること、かつまた、神(神々)が世界を創造したのかどうか、従って、神(神々)が発現する前に世界があったかどうか、が定かではないこと、において、日本神話と全<て>同じでこそないけれど、互いに相通じるところがある。」
ちなみに、ケルト人は、アニミズム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0
を信奉していた(コラム#14548(未公開))が、この点についても、「縄文人はあらゆる自然現象に霊的な存在を認めていた[・・精霊信仰・・]・・・ため、狩猟などの生産活動に伴う儀礼や、人生の節目における通過儀礼などをアニミズムの信仰で対処していた。」
https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht020280
ことから、縄文人に相通じるところがある。
付言すれば、「稲作が渡来し本格的な農耕が開始された弥生時代には、縄文時代の精霊信仰に加えて新たに稲の豊穣を祈る穀霊信仰と祖霊信仰が大きな柱になっていったと考えられます。」
https://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/rites_1.html ([]内も)
以上を踏まえれば、ケルト社会は、日本の弥生時代/ヤマト王権時代の社会に似通った、弥生的縄文社会、すなわち、人間主義的社会であったと考えられる。
但し、ケルト社会には、縄文時代の記憶があった日本の弥生時代/ヤマト王権時代の社会のような、「的」の付かない人間主義社会の時代の記憶、はなかったのではなかろうか。
繰り返すが、このケルト社会の文化を、イギリスに渡来したバスク人は総体継受したわけだ。
そして、バスク人が半分を占めたところの、ブリトン人もまた、人間主義的社会だった、と、私は見るに至っている。
◎ちなみに、ユダヤ人は弥生人なのだ
戦争の神であるヤーウェの信奉者集団がユダヤ人であり、彼らは敗北を喫してもそれを神の自分達が罪を犯したことへの懲罰と考えヤーウェ信仰をより強靭なものにしていった。↓
「イスラエルが侵入したカナンの地には様々な先住民が居住しており、平和裏に共存した場合もあったが、戦いになった場合も多かった。その時、イスラエルの諸部族は戦いのための部族連合を結成したが、その連合を有効な軍事組織とし、さらに宗教同盟へと導いたのがヤーウェである。政治と宗教が未分化だったイスラエルの戦いはヤーウェの戦いとみなされ、それゆえイスラエルの勝利は、神の強さの表れと理解された。このことについてヴェーバーは「イスラエルの誓約同志共同<体>に神聖な霊感を与えたのは、古くから信仰されていた地域の神でもなければ部族の神でもなくて、むしろ一つの神秘に包まれた未知の神であったのである」と述べる。
ここでヤーウェは、多くの民の中からイスラエルを選び契約を交わした。「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の民とされた(申命記 7:6)」。その頃は戦いに敗れるということは、国家と民族の滅亡を意味する程重大なことであり、そのような数多くの戦いの後にヤーウェは民族を支配する強力な普遍神としての地位を得ることになった。・・・
ヤーウェ契約の特徴の一つは、イスラエルは自らの自由意思によって契約したのだから、契約順守に関して各人に「宗教的連帯責任」があるとされる。そのような中で、力あるヤーウェによってしても民族としての望むべき結果が得られないのは、神が契約を履行しないのではなく、民族がそれにふさわしい行いをしていないからではないかという、被虐的結論が導き出されるようになった。「地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する(アモス書 3:2)」とあるように、人々は禍は民族の罪によると考えた。イスラエルは、結果的にヤーウェの怒りにふれたのであり、神の庇護を受けるに値しない状態であると理解した。」
https://www.cismor.jp/uploads-images/sites/2/2016/05/397abbb25cb9a42e95bd81f6e08d1cc7.pdf
このユダヤ人の弥生性がいかほどのものだったかを、探ってみよう。↓
「ユダヤ・ローマ戦争(・・・Jewish–Roman wars)は、西暦66年から135年にかけて、東地中海のユダヤ属州のユダヤ人らがローマ帝国に対して起こした一連の大規模な反乱。
その結果、ユダヤ人らは敗戦し、エルサレム近郊に居住することを禁止された。・・・
<この>紛争の経過については以下・・・を参照。
・エルサレム攻囲戦(紀元前63年)
・ガリラヤの蜂起(8年)
(キリストの磔刑(30年頃))
・アレクサンドリア暴動 (38年)
・ヤコブとシモンの乱(46年) – ユダヤ属州のガリラヤを中心に起きた熱心党のシモンらによる蜂起。
・ユダヤ戦争(66年-74年) – 69年、ローマの将軍ティトゥス(のち皇帝。タイタス)の攻撃により、第二神殿が陥落。[73年<、>・・・ユダヤ人集団967人が包囲を逃れ、マサダに立てこもった。籠城側は兵士のみではなく、女性や子供も含まれていた。・・・抵抗を続ければ全員が殺され、降伏すれば全員が奴隷となるのが当時の慣習であり、奴隷となるより死をと、集団自決が選択された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B5%E3%83%80 ]
・キトス戦争(115年-117年) – キレナイカのルクアスが指導した反乱。ローマ軍の将軍ルシウス・クィエトゥスにより鎮圧
・バル・コクバの乱<(第2次ユダヤ戦争)>(132年-136年) – バル・コクバによるユダヤ独立戦争であったが、ハドリアヌス帝が鎮圧。・・・エルサレム<は>・・・廃墟とな<り、>・・・ユダヤ人の立ち入り<は>禁じ<られた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%88%A6%E4%BA%89
⇒これを第1次(足掛け9年)と第2次のユダヤ戦争(足掛け5年)に限ったとしても、その苛烈さと長期継続は驚異と言える。
これらを古代ローマに対するところの、ユダヤ人以外による反乱、と比較すればそのことは明らかだ。↓
足掛け3年以上の「長期継続」反乱は、下掲の8例しかない。↓
・紀元前11年-9年: トラキアの南部山岳部族の反乱
・3年-6年: マウレタニアのガエトゥリ族<(注4)>の反乱
(注4)「ガエトゥリ人 [北アフリカの古代ベルベル人で、現在のチュニジアとアルジェリア東部の地域に住んでいます].・・・ガエトゥリ族は馬術で知られ、傭兵として雇われることが多かった。」
https://redkiwiapp.com/ja/english-guide/words/gaetuli
・6年-9年: バト戦争<(注5) – イリュリクムでの大反乱
(注5)The Bellum Batonianum (Latin for War of the Batos) was a military conflict fought in the Roman province of Illyricum in the 1st century CE, in which an alliance of native peoples of the two regions of Illyricum, Dalmatia and Pannonia, revolted against the Romans. The rebellion began among native peoples who had been recruited as auxiliary troops for the Roman army. They were led by Bato the Daesitiate, a chieftain of the Daesitiatae in the central part of present-day Bosnia and Herzegovina, and were later joined by the Breuci, a tribe in Pannonia led by Bato the Breucian. Many other tribes in Illyria also joined the revolt.
https://en.wikipedia.org/wiki/Bellum_Batonianum
・17年<21年?>-24年: タクファリナス族<(注6)>の反乱
(注6)「北アフリカではローマ軍の補助部隊で軍務を経験したタクファリナスが砂漠の民を組織してローマ属州を襲う・・・2年後にタクファリナスが戦死して反乱は解決する<。>」
http://koarashi.my.coocan.jp/Roman_history/Roman_history-7.htm
・40年-44年: アエデモンとサバルス<(注7)>の反乱 – マウレタニアでの反乱
(注7)「モーレタニアのプトレマイオス王は、ローマを訪問中に、・・・従兄弟ローマ皇帝カリグラによって殺害されました。プトレマイオスの・・・元奴隷<の>・・・アエデモンは、・・・<マウ>レタニア王国でローマに対する反乱を開始しました。王国の多くの人々が反乱に加わりました。・・・ベルベル人<で>・・・部族長の一人で<あった>・・・サバルスは・・・反乱軍<に加わり>・・・ました。」
https://fuguja.com/sabalus
・372年-375年: フィルムス<(注)>の反乱 – アフリカで蜂起
(注)「ベルベル人のユバレニ族の王族で有力なローマ軍将校であり、また裕福なキリスト教徒でもあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%B9_(4%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9)
・409年-417年: バガウダエ族の反乱 – ロワール渓谷およびブルターニュで決起。
・435年-437年: バガウダエ族の反乱 – ティバットに率いられガリアで蜂起。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%AE%E5%86%85%E6%88%A6%E3%81%A8%E5%8F%8D%E4%B9%B1%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
⇒最後の2つは、ローマ帝国西部が瓦解しつつあった時期なので除くとすると、後の6つのうちの大部分である5つは、ローマの傭兵かローマ軍補助部隊の一部が反乱を起こしたものであり、ローマの内戦に近いと言うべきであって、ほぼ純然たる反乱であったところの、第1次、第2次のユダヤ戦争の特異性は明らかだろう。(太田)
以上を踏まえれば、弥生人として、騎馬遊牧民とゲルマン人だけではなく、ユダヤ人も挙げるべきだった、ということになろう。
ユダヤ戦争に敗北したユダヤ人はディアスポラとして古代ローマ全域に散り、その後、更に全世界に散って、イスラエル建国までの間を過ごすことになったわけだが、その間、その弥生性を深く蔵して空しくして隠してきていた、ということになる。
にもかかわらず、ユダヤ人に対してポグロムの類が頻発し続けたのだから、弥生性を部分的にせよ露わにするようなことがあれば、ユダヤ人は絶滅させられていたに違いない。
誤解を恐れずに言うが、ホロコーストは、自身の弥生性の衰えを痛感させられていたところの、純粋ゲルマン人たるドイツ人達によるところの、同化が遅々としていて就中弥生性が衰えていないとうすうす感知されていた上にドイツ語圏では平均的知力がドイツ人を凌駕していたユダヤ人、に、自分達が支配されてしまうのではないか、という恐怖に由来する予防殺戮だったと捉えることもあながち不可能ではないのではないか。
イスラエル建国後の同国の歩みを振り返ってみると、騎馬/騎駱駝遊牧民であったことに由来する、広義のアラブ人の弥生性をユダヤ人(イスラエル人)の弥生性が遥かに凌駕していることは明らかだろう。
(強固な弥生性を維持したままの、こんなイスラエルが、その領土がじりじりと拡張を続け、人口も数千万人に増えた、場合のことを想像してみよ。)
◎プロト漢人文明黎明期・・二里頭文化/殷・・も人間主義社会だった!
・始めに
日本は外からもたらされた農業革命を契機に人間主義社会から人間主義的社会へと変貌を遂げたが、農業革命後にも、インダス文明以外に、ミノア文明社会とチャタル・ヒュユク社会という人間主義社会群が存在したことが分かったことから、それ以外にもあるのではないか、と、探してみた。
すぐ、思ったのは、孔子が人は仁者(人間主義者の対人間だけバージョン)であるべきだ、と主張したことには、何らかの根拠があったのではないか、ということだった。
漢字、すなわち、漢語において、人=仁、であることに気がついた。
https://kotobank.jp/word/%E4%BB%81-81299
https://jigen.net/kanji/20154 ←人
https://jigen.net/kanji/20161 ←仁
ということは、孔子の時代より前に、人=仁、であった時代が支那に実際に存在した、そういう実態があった、ということではないのか、とも。
・漢字の起源は二里頭文化/殷
「<支那>で文字が成立した時代は、今のところ、龍山文化の末期か、その後に続く二里頭<(にりとう、アルリトウ)>文化の初期(紀元前2000年前後)と推定されている。二里頭文化では、青銅器製作技術の獲得や王朝の成立なども起こっており、文明として大きく発達した時代でもあった。ただし、現在までに発見されている紀元前2000年前後の文字は断片的であり、数量も僅かであるため、「文字」として成立した時期を正確に特定することは困難である。・・・
<なお、>一般的には、文字は「言語を記録できるもの」とされる。
[紀元前5000年から紀元前2700年あたりである・・・仰韶文化(ぎょうしょうぶんか、ヤンシャオぶんか・・・)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B0%E9%9F%B6%E6%96%87%E5%8C%96 ]<の>陶文は、単独で数字や物体だけを表示したものであり、抽象的な福祉や形容詞の存在は確認されておらず、また言語を表現したような羅列もない。したがって、仰韶文化の陶文は言語を表示できない記号ということになる。・・・
甲骨文字は殷代後期の史料であり、具体的には紀元前13~11世紀の製作である。」
https://flora.karakusamon.com/2013f/kanji_toubun.html
「考古学的に最古の漢字は、二里頭遺跡から発見された出土土器に文字を刻んだ陶文である、形象化され記録保持に使用された明確な文字で<あり、これが>漢字の誕生と言える。
殷後期の遺跡からは、国事行為や宗教祭儀である卜(ぼく)の結果を記録した甲骨文字(亀甲獣骨文)が大量に発見されている。 漢字としての完成度が高いことが研究により明らかにされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%AD%97
従って文字たる、人=仁、が生まれたのは、二里頭文化ないし殷、と目される。
ということは、少なくともそれまでに、人=仁、という観念が、人=仁、という実態に基づき、成立していた、ということになる。
・二里頭文化/殷の人間主義性
まず、二里頭文化については、「1960年に広大な宮殿跡や青銅器などの工房跡が発見され、<支那>最古の宮殿建築の基礎であることが確認された。一号宮殿址の土台は方形で、南北約100m、東西108m、北東部に切り欠けがある。塀、回廊が発見された。城壁は発見されていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E9%87%8C%E9%A0%AD%E6%96%87%E5%8C%96
次に、殷については、「殷王朝後期(BC14世紀ごろ – BC11世紀ごろ)・・・の首都<の跡である>・・・殷墟<に関し、>・・・都城(城壁)の痕跡が見つかっていない・・・。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7%E5%A2%9F ☆
以上から、いささか意外ながら、実は、二里頭文化はもとより、殷についても、外敵不在で無内戦の人間主義社会だった、と、言えるのではなかろうか。
ヤマト王権の平安京とそれに至るまでの諸首都等、インダス文明諸都市、ミノア文明諸都市、に城壁がなかったことを想起して欲しい。
なお、「<殷墟>には・・・宮殿<跡のほか、>・・・13基の大規模な墳墓が発見され、そのうち王墓の8基(武丁以降8代)は密集している。」(上掲)ということから、貧富の差があった、ということには必ずしもならない。
「殷朝の第22代王武丁<は、この>・・・殷墟(大邑商)の地に都を置いた<人物で、>・・・鬼方という異民族を3年かけて討ったと易経にあり、軍事的にも殷の勢力を四方に拡大した。夫人の婦好も自ら軍を率いて敵国を征伐したという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E4%B8%81
し、この「婦好も数多く兵を率いて出兵した。巴方、土方、夷方などの征伐におもむき、羌人征伐のときには13,000もの軍勢を率いている。また、祭祀を執り行ってもいたようである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A9%A6%E5%A5%BD
そして、彼女の「墳墓からは6匹の犬のほか、少なくとも16人の殉死者が発掘され、他に副葬品として440以上の青銅器、約600もの玉石器、石彫類、骨角器、約7,000枚の当時の貝貨が出土している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7%E5%A2%9F
以上から、殷で女性の地位が高かったこと推察できるほか、貧富の差や階級的なものは殆どなく、祭祀を預かる首長や首長妃だけが突出して奉られていた、とも推察できよう。
(殷は邑制国家であったところ、だとすれば、各邑についても同じことが言えそうだ。)
付言すれば、戦争の記述はたくさん甲骨文に残されているものの、(王墓群は盗掘され切っているところ、)彼女の墳墓から、武器が見つかっていないこともあり、本当に王や王妃が異民族や他国と戦争を頻繁に行っていたのか、疑わざるを得ない。
(「<支那>では、紀元前3100年頃から紀元前2700年頃にかけて・・・青銅器時代に移行したと考えられている。その後、黄河中下流域に栄えた龍山文化や二里頭文化を経て、紀元前1600年頃には二里岡文化に代表される<支那>最古の王朝である殷(商)が成立した。・・・その後周代を経てから春秋時代(紀元前770年〜紀元前400年ごろ)までが青銅器時代に相当<する>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3
が、「<支那>の青銅器」のウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E9%9D%92%E9%8A%85%E5%99%A8
の中に、武器は一切登場しない。
ちなみに、階級的なものはなかったことの関連だが、「殷王朝は、戦争奴隷を労働力・軍事力の基盤として、また葬礼や祭祀における犠牲として、非常に盛んに利用していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A5%B4%E9%9A%B7%E5%88%B6
とされていて、奴隷がいたことは事実だったとしても、奴隷が「戦争」奴隷だったか、また、「軍事力の基盤」だったか、は大いに疑問であり、殷は商人が作った国・・商とも呼ばれる!・・ともされている(コラム#省略)ことから、債務奴隷であったとも考えられる。)
・周の弥生性
「殷墟その他の遺跡からは、車1輌・馬2頭セットで埋葬された車馬坑もいくつか発見<されているが、>・・・古代戦車の基本型が完成するのは、B.C.1500年ごろ、イラク・シリア・トルコのあたり<であり、>・・・<支那>へは、その基本型が殷(商)代後期、B.C.1300年ごろ伝来<したものである>」
https://note.com/genmerumaga/n/n25018df389d3
ところ、「戦車は一方で、旅や狩猟の際の重要な移動手段でもあった」
https://www.recordchina.co.jp/b907393-s41-c30-d0198.html
ことを踏まえれば、殷代においては、戦車は最後まで戦闘に投入されることはなかったのではないか、と、私は見るに至っている。
「<周が殷を滅亡させた>牧野の戦いの緒戦では、太公望の知謀と周軍300乗の戦車が活躍して、周軍の四頭立て戦車が紂王の大軍の二頭立て馬車を圧倒、勝敗は短時間で決した<、とされる>。
どうも、平原の地を長く治めてきた殷は、伝統の二頭立て戦車で戦場に臨み、西方を本拠地とした周は急な山坂にも対応できるような機動力のある新型の四頭立ての戦車だった所にも大きな勝敗の分かれ目があったように感じる。
それから、これは根拠が薄いが、<支那>の名馬や優駿の産地は古来、西方の地域に多く、東方の馬は小形で温和しい馬が多かったとも伝えられているので、その影響も若干、あったかも知れない。更に、余分なことを付け加えれば、太公望呂尚の出身は「羌族」といわれているので、馬の扱いには熟練した部族だった可能性が高い。」
https://ncode.syosetu.com/n1045cf/19/
というのが最新の説のようだが、私は、殷は戦車を戦闘に投入していないと見ているところ、遊牧民系の周が農民系の殷よりも弥生性において上回っていた、というよりも、そもそも、殷は縄文人の邑連合国だったので、弥生人集団であった周は殷を殆ど戦わずして滅亡させることができた、と、考えるに至っている。
「戦国時代の儒学者である孟子<が、>『孟子』において、「・・・<周の>文王は岐周に生まれ、畢郢に死した西夷の人だ」として・・・いる<が、>・・・周王朝の祖である后稷の母である姜嫄の「姜」は「羌」と同じで、 このことから周は元々羊の遊牧文化を持つ非定住農耕民であったという説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8
と述べていることを想起して欲しい。
・孔子にとっての仁
ここで銘記すべきことが二つある。
漢字(漢語)として、人=仁、であることは残ったこと、と、孔子が殷の王族の末裔として、殷の実態についての伝承にも接していたであろうことだ。
さて、「シナ・チベット語族の起源は<支那>北部の黄河流域にあり、5900年前頃に(7800~4200年前頃)拡散・多様化が始まった」わけだ。
https://sicambre.seesaa.net/article/201904article_37.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E8%AA%9E%E6%97%8F
(ちなみに、「伊藤英人は半島日本語(大陸倭語)を高句麗語とした上で、日本語と半島日本語は同じ祖語から分かれた同系統の言語であり、半島日本語集団から分かれた集団が紀元前900年から紀元700年にかけて水田農耕を携え日本列島に渡来したと考えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E )
で、周は、人間主義社会の殷と同様、シナ・チベット語族系の言語を使っていて、文字も殷のものを踏襲したことから、自身の弥生性にもかかわらず、「人」を「仁」の意味でも使い続けた。
それに加え、殷の縄文性文化に染まって、弥生性を次第に縄文的弥生性にまで緩和させていき、東周頃までには、支配層は縄文的弥生人化、被支配層は縄文的弥生人からの非人間主義的統治の下で普通人・・孔子の言うところの小人・・化、し、秦帝国/漢時代からは、更に日本の弥生人(弥生的縄文人)の出身でもあるところの、弥生的縄文社会の長江文明の影響を受け、支配層は弥生的縄文人へと弥生性を一層緩和させると共に、被支配層は普通人のまま、という構成となり、支那は、現在近くまで、基本的にそのままの形で推移した、と、私は見るに至っている。
孔子は、殷の王族の末裔として、本来、実態としても「人=仁」であったことに深く思いをいたし、「君子は仁を去さりて、悪(いず)くにか名を成さん。君子は終食の間も仁に違たがうこと無なく、造にも必ず是(ここ)に於いてし、顚沛(てんぱい)にも必ず是に於いてす。」(「里仁第四5」)、
https://kanbun.info/koji/kunshijinsa.html
と、人々に君子(仁者)になるよう促した、と、私は解するに至っている次第だ。
・結論
定住的狩猟採集社会であったところの縄文時代の社会(BC14000~BC10世紀頃)、のほか、農業社会であったところの、(但し狩猟も不可欠だった)チャタル・ヒュユク(Chatalhoyuk)社会(BC7500年頃~BC5600年頃)、ミノア文明社会(BC2000年頃~BC1400年頃)、インダス文明社会(BC2600年頃~BC1800年頃)、殷(BC16世紀頃~BC1046年)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%82%A2%E6%96%87%E6%98%8E
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%87atalh%C3%B6y%C3%BCk
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%80%E3%82%B9%E6%96%87%E6%98%8E
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%B7
といった具合に、定着社会で、就中、農業革命後の農業社会においても、人間主義社会と思しき社会は、既発見のものだけでもいくつもあったわけだ。
私の言う拡大枢軸の時代(BC800年頃~AD100年頃)(コラム#14360)の到来は、人間主義社会をかつて持った、或いは、人間主義社会をかつて近傍で持った、ところの、(日本を除く)それぞれの地域において、これら社会の消滅後、数百年の後、この消滅を人類にとっての危機と捉えた人々が登場したことの証であると言えよう。↓
「狩猟採集時代の人間は基本的に全て縄文人<(人間主義者)>であったところ、農業革命以降、その大部分が、一部は弥生人や縄文的弥生人や弥生的縄文人、その他は普通人、へと「堕落」してしまったところ、このうち、縄文性を部分的に失わなかった、縄文的弥生人や弥生的縄文人、が、私の言う拡大枢軸の時代において、縄文性を全面的に回復する方策を追求した結果生まれたのが、(プラトン<やアリストテレス>が唱えた哲人政体の追求、<儒家や>墨家の人々が唱えた<儒家や>墨家の思想を体現した政体の追求、といった)イデオロギーや(ユダヤ/キリスト教、大乗仏教、といった)教義宗教なのであり、これらのイデオロギー/教義宗教の担い手達は、それを、弥生人や普通人、等、に普及することに努めつつ、現在・・少なくとも比較的最近まで・・に至っている、ということなのです。
他方、日本列島においてだけは、支配層を構成する弥生的縄文人が、縄文的弥生人へと自らを変身させることによって、縄文人を縄文人のまま保護し維持することに成功した、と。
なお、支那大陸においては、弥生的縄文人が基本的に支配層を構成し続けたものの、弥生人たる騎馬遊牧民によって征服されたり混乱状態に陥らされたりして王朝交代が起り、征服された場合、その征服王朝の支配層は、漢人文明化することによって、弥生人から縄文的弥生人へ、更には弥生的縄文人へ、と急速に変貌してしまうのを常としてきたところです。」(コラム#14546)
すなわち、インダス文明社会が滅んでからこの社会の担い手と同系のドラヴィダ人を征服したところの、アーリア人社会が釈迦や法華経の編纂者達を輩出し、ミノア文明社会を滅ぼしたところの、古代ギリシャが古典ギリシャ時代にプラトンやアリストテレスを輩出し、更には、チャタル・ヒュユク社会やミノア文明社会の記憶がイエスを生み、殷を滅ぼしたところの周が春秋時代に孔子や墨子を輩出した、ということではなかろうか。
≪「(2)集団主義・非集団主義」について≫
「経済社会システム総合研究所のKAITEKI研究会<による>・・・『社会課題に関する日米独三カ国意識調査』(2023年11月22日・・・)」・・・で「家族で信頼できる人がいるか」という問いに対して、「誰もいない」との回答は、アメリカで8.5%、ドイツで8.4%にとどまっているのに、日本では16.5%にも達している。
逆の立場から「家族に信頼されているか」と問うと、「信頼されている」との回答は、日本では53.9%なのに対して、アメリカでは85.0%、ドイツでは83.3%にも上っている。
さらに「地域で信頼できる人がいるか」との問いへの回答をみると、「誰もいない」という回答は、日本では半数近くの47.7%に達しているのに、アメリカは24.5%、ドイツは24.3%にすぎない。
「地域で信頼されているか」との問いに目を向けても、「信頼されている」との回答は、アメリカで70.4%、ドイツが63.1%に上っているのに、日本のそれは30.8%にすぎないのである。
こうしてみれば、家族や地域社会という「生活の場」における社会システムは、日本では極度に弱化してしまっていることがわかる。
⇒時系列的調査が必要。
私は、時代を遡っても、日本と米独との違いは基本的に変わらないのではないかと想像している。
また、これは「孤独や孤立」の度合いではなく、むしろ「独立や自立」の度合いを示すと解すべきである、とも。
つまり、日本人の方が米国人やドイツ人よりも「独立や自立」の度合いが強く、従って、非「集団的」である、ということなのではなかろうか。(太田)
もっとも、社会的絆は「生活の場」だけではなく、「生産の場」である「職場」でも形成される。
そこで・・・「職場(学校)で信頼できる人はいるか」という問いへの回答をみると、「誰もいない」との回答はアメリカで27.7%、ドイツで28.7%なのに、日本では50.4%に達している。
「職場(学校)」で信頼されているか」との問いへの「信頼されている」との回答は、アメリカで80.1%、ドイツで72.4%にも上っているのに、日本では35.3%にすぎないのである。
⇒これも、同じように解すべきなのだ。(太田)
このように日本の社会は社会的絆を喪失した不信社会となり、日本国民は孤独や孤立のうちに生きている<はずだ>。ところが、・・・<なんと、>日本国民は孤独や孤立を感じてはいない<のだ>・・・。
「孤独や孤立を感じることがあるか」という問いに、孤独や孤立を「感じない」との回答は、「生活の場」でも「生産の場」でも人間の信頼関係が強いアメリカでも、15.1%、ドイツでも25.5%にすぎない。
これに対して日本の「感じない」という回答は、33.2%と極めて高くなっているのである。」(「學士會会報 No968(2024-V)」25~27)
⇒このことは、私のように解して初めて理解することができよう。
繰り返しになるが、日本人は、「独立や自立」の度合いが強く、その状態こそがデフォルトなのであって群れたがらないのだ。(太田)
≪参考:私の「日本は人間主義的社会」説の類似諸説≫
◎微修正した私の説(太田述正説)
縄文社会=(縄文人だけの)人間主義社会、プロト日本文明社会=弥生時代の社会と拡大弥生時代の社会=(弥生的縄文人を上澄みとし縄文人をその他とする)人間主義的社会、日本文明社会=(縄文的弥生人を上澄みとし、縄文人をその他とする)人間主義的社会、であるとすることとし、従来、アバウトに「日本は人間主義社会」と言ってきたのを、「的」を入れることでより正確な表現へと改める。
なお、イギリス(アングロサクソン文明)社会=(組織の中では弥生人を上澄みとし縄文的弥生人をその他とし、組織の外では個人主義的縄文人だけ、の)ユニークな人間主義的社会、だ。
◎グレゴリー・クラーク説
クラークの「人間関係社会」説の問題点については、『ユニークな日本人』シリーズ(コラム#14515~#14590)参照。
◎山本七平説
「山本の「日本教<説>」の問題点は、・・・人間主義<説(太田説)>とは違って、人間以外の生物や自然を捨象していることが第一点であり、第二点は、それが<、日本教説が言うような>宗教的なものではなく、況や律法的なものに従っているのでもなく、<太田説が力説してきたように、>日本人は、人間の本来の姿、自然な姿、のままに言動を行っているのに過ぎないこと、です。
なお、山本は、『「空気」の研究』(1975年)の中で、「日本社会を支配しているのは法律や条令ではなく場の空気であるとする。外国では罰則や義務やルールが人々を統制しているが、日本では空気が人々を統制している。日本では空気に抗することは罪であり、これに反すると最も軽くて村八分の刑に処される。これは軍人と非軍人、戦前と戦後に関係なく存在している。・・・組織の意思決定は論理的か空気的に行われており、明らかに空気的に行われる方が強い」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%8C%E7%A9%BA%E6%B0%97%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6
としていますが、「日本教」と「空気」との関係を説明していなかったように思います。
後者は前者の部分集合で<あって>、日本教が機能不全を起こした状況が空気の支配<である>、ということかもしれませんが・・。」(コラム#14630)
◎浜口恵俊説
「浜口恵俊<の>・・・「間人主義」<説における間人主義>の三属性<は次の通りだ>。
一、相互依存主義–社会生活はひとりでは営めない以上、相互の扶助が人間の本態だ、とする理念。
二、相互信頼主義–自分の行動に相手もきっとうまく応えてくれるはずだ、とする互いの信頼感。
三、対人関係の本質視–相互信頼の上に成り立つ関係は、それ自体が値打ちあるものと見なされ、「間柄」の持続が無条件で望まれる・・・。」(14)
<それに対し、>私の言う人間主義の中核的な諸点は、第一に、それが、日本(や「東洋」?)独特の対人関係などではなく、かつては普遍的な対人関係であって今なお本来的な対人関係である点、第二に、常に他者も自分も共に裨益するよう心掛ける点、そして、第三に、その他者に、人のみならず生きとし生けるもの全て、ひいては自然、まで含も点、なのであって、浜口の間人主義は人間主義の一部分、一側面に過ぎないのです。」(コラム#14600)
なお、現在連載中の『間人主義の社会 日本』シリーズのこれからの配信も読んでいただきたい。
◎木村敏説
木村の「人と人との間」説及び同説に対する私の批判は、浜口本のシリーズの完結後に引き続いて配信にする予定であるところの、『人と人との間 精神病理学的日本論』シリーズに委ねたい。
⇒先回りして総括すれば、クラーク/山本/浜口/木村説共通の基本的問題点は、浜口説批判の三つの点(上述)、に加えて、(ルース・ベネディクトとは違って、)日本の縄文性だけに着目して日本の弥生性・・正確には縄文的弥生性・・を捨象している点だ。↓
「日本列島には、縄文時代にはもちろん国々はなかったところ、BC10~BC8世紀に始まる弥生時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
にも、弥生人の出身地であるところの、長江地域、の長江文明社会にもBC7世紀頃に中原(黄河)文明社会の影響を受けて越や呉ができる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
までは国々がなかったためか、依然として国々はできず、この点は、呉と越の滅亡(BC473年、BC306年)に伴う両国の君民の一部の朝鮮半島経由での日本渡来があった可能性が高いけれど基本的に変わりませんでしたが、私の言うAD1世紀頃からの拡大弥生時代(コラム#省略)には、前漢末以降の支那の混乱時代を背景に日本列島に脱出してきた渡来人達が<、ついに>漢委奴国等の国々を作り始め、やがてヤマト王権が成立して日本が統一国家を形成するところ、それは、それまでの諸国をエージェンシー関係の重層の中に適宜位置付け、頂点に象徴的に天皇家を戴くところの、世界標準からすると、異色であるところの、ボトムアップの柔らかい国家・・人間主義的国家・・であった、というのが私の考えです。
そこには、<天皇家を戴くことに係る神話こそあれ、>何の原則・・教義宗教や思想/イデオロギー・・も介在していなかったと言ってよいでしょう。
これが、郡県制を基本とした、文字通りの、トップダウンの固い統一国家であったところの、支那、の、秦帝国や漢帝国・・いずれも、私見では、タテマエは法家の思想、ホンネは墨家の思想に拠っていた(コラム#省略)・・を継受したものであった筈がありません。
現在なお健在である人間関係社会<(私の言う人間主義的社会)>が日本だけであることはクラークの<母国である拡大英国(コラム#省略)も実はもう一つの人間関係社会(人間主義的社会)であってそのことに彼が気付いていないことはさておき、基本的に彼が>言う通りですが、それができたのは、日本が、騎馬遊牧民族ないし支那王朝軍に対抗できるくらい「攻撃的な」軍事力を整備・維持することに成功したからだ、というのが私の見解であるわけです。
日本が、かかる軍事力の整備に着手したのは、鮮卑なる騎馬遊牧民である、支那大陸の北夷が漢人の支那王朝を完全に征服して隋/唐帝国を建国したことに脅威を覚え、将来ありうべき騎馬遊牧民の日本侵略を跳ね返すことができるようにするためだった、とも。
ここで、新しい話を一つ付け加えておきますが、私見では、こうして日本で創出された武士達からなる「軍隊」もまた、エージェンシー関係の重層構造の柔らかい組織でもって編成されていたところ、そんなヤワな代物のままでは、騎馬遊牧民や支那王朝軍には対処できても、欧米/露軍には対処できない、という認識の下、固い組織の近代「軍隊」を整備・維持すべく倒幕・維新が決行されたのです。」(コラム#14570)
——————————————-
太田述正コラム#14640(2024.12.14)
<2024.12.14東京オフ会次第>
→非公開