太田述正コラム#14474(2024.9.21)
<映画評論132:VIKING バイキング 誇り高き戦士たち(その1)>(2024.12.16公開)

 ロシアの現在を取り上げたと言ってよい前シリーズに続き、ロシアの起点を取り上げたと言ってよい「VIKING バイキング 誇り高き戦士たち」・・「2016年ロシア映画興行収入第1位を記録した歴史劇。西暦800年代後半。リューリク一族率いる<ヴァ>イキングがキエフを制圧し、その地をルーシと称するように。それから約100年後の977年、ルーシを支配する大公スビャトスラフが死去し、キエフを長男ヤロポルク、オーブルチを次男オレーグ、ノブゴロドを三男ウラジーミルがそれぞれ統治することになる。やがてヤロポルクと彼を妬むオレーグが衝突し、オレーグは殺害される。ウラジーミルはヤロポルクとの関係を良好に保つためキエフへ話し合いに向かうが、なぜかキエフはもぬけの殻だった。そしてそこには、兄からの宣戦布告のメッセージが残されていた。」
https://eiga.com/movie/88251/
を取り上げます。
 上掲より詳しい筋がこの映画の英語ウィキペディアに載っています
https://en.wikipedia.org/wiki/Viking_(2016_film)
が、映画を見ただけでは、筋が余りよく分からず、にもかかわらず、2016年にロシアで最も売れた映画になったというのですから、ロシア人は・・ウクライナ人はもちろんのことですが、・・この頃のこの地域の歴史に滅法詳しいのだと想像されます。
 ここで、この映画の主人公であるウラジーミルについて、復習を兼ねて紹介しておきましょう。
 それは、この映画の筋を概ね説明することにもなります。↓

 「ウラジーミルは、955年頃にキエフ大公・スヴャトスラフ1世<(注1)>の子として生まれた。

 (注1)942~972年。在位:945~972年。「ハザールは西突厥の消滅以後、西北ユーラシアで最強の勢力を誇った半遊牧半農耕国家で、その版図はヴォルガ下流域を中心にカスピ海北岸、カフカス北麓、黒海北岸におよぶ広大なものであったが、当時は衰退期に入っていた<ところ、その>・・・ハザール<を>・・・一般に966年・・・<に>征服<した>・・・とされるが、アラブの地理学者イブン・ハウカルは968年として伝えている。・・・<しかし、>ルーシに草原地帯を確保する力はなく、空白となった旧ハザール領には新たな遊牧民ペチェネグ族が進出しはじめる。・・・
 <彼が行った、>二度にわたるブルガリア戦役は、結局ルーシにとってなんら益なくして終わった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%83%A3%E3%83%88%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%951%E4%B8%96

 母は、オリガ<(注2)>(スヴャトスラフの母、ウラジーミルの祖母)に仕えた鍵番のマルーシャであった。

 (注2)?~969年。「キエフ大公国第2代大公イーゴリ1世の妃。・・・イーゴリ1世の死後、当時3歳であった息子スヴャトスラフ1世の摂政としてキエフ・ルーシを統治した(945年 – 963年頃)。・・・伝承によれば945年または957年にコンスタンティノポリスでキリスト教に改宗した。・・・ルーシでは最初期のキリスト教改宗者<。>・・・オリガは東ローマ帝国に接近する一方で、東フランク王国のオットー1世にも接近し、959年に使者を送ってラテン教会の僧侶の派遣を求めたと西方の記録は伝えている。・・・息子スヴャトスラフ1世にも洗礼を勧めたが、断られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%AC_(%E3%82%AD%E3%82%A8%E3%83%95%E5%A4%A7%E5%85%AC%E5%A6%83)

 正嫡の兄として、長兄ヤロポルク1世<(注3)>と次兄オレーグがいた。・・・

 (注3)945~980年。在位:972~980年。「968年にペチェネグ人がルーシに来襲した際に、祖母オリガ、弟のオレーク、ウラジーミルと共にキエフに立て籠もる。972年に、父が<ブルガリアでペチェネグ人に>殺害された後、キエフ大公になる。弟のオレー<グ>を殺害する。これをきっかけに弟ウラジーミルと対立する。980年、弟のウラジーミルとの戦いに敗れ、殺害される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%AF1%E4%B8%96

 父の死後の975年にヤロポルクがオレーグと争い、殺害にいたると、977年ウラジーミルはスカンディナビアへ逃亡した。37歳の時、ノルマン人(ヴァリャーグ)を率いて帰還、ヤロポルクを破り、キエフ大公に即位した。・・・
 キエフ進撃の途上で、他のヴァリャーグ系の国家であるポロツク公国を滅ぼし、公ログヴォロドと息子たちを殺害した上、かつて自身を「奴隷の子」と呼んで侮辱した公女ログネダを略奪して妻とした。さらに南方や北東地域にも進出してキエフ大公国の領土を父の代から倍増させた。・・・内政においては、ノルマン系のルーシ族の植民を奨励する一方で[要出典]・・・988年に<、>彼も・・・正教<の>・・・洗礼を受け<、>・・・正教を国教とし<、>・・・異教の偶像を破壊するよう命じた。・・・加えて東ローマ皇帝バシレイオス2世の妹アンナと結婚し<た。>・・・近隣との関係はおおむね平穏であったが、南方ステップ地帯の遊牧民であるペチェネグ人には悩まされた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB1%E4%B8%96 ★
 
(続く)