太田述正コラム#14478(2024.9.23)
<映画評論133:スターリングラード<(1993年)>(2024.12.18公開)
今度は、ロシアの近過去に係る映画です。
まず、「スターリングラード (1993年の映画)<ですが、>・・・ドイツの[反戦]映画<で、>・・・スターリングラード攻防戦<(注)>で壊滅したドイツ第6軍の有様を、ドイツ側からの視点で描いている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89_(1993%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
https://en.wikipedia.org/wiki/Stalingrad_(1993_film) ※ ([]内)
(注)1942年6月28日~1943年2月2日。「第二次世界大戦の独ソ戦において、ソビエト連邦領内のヴォルガ川西岸に広がる工業都市スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を巡り繰り広げられた、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアからなる枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである。・・・
当時人口60万だったスターリングラード市は、・・・スターリンが革命時のロシア内戦においてデニーキン将軍の白衛軍に勝利した記念地を都市名の由来としていたが、地理的に見た場合、ロシア南部でヴォルガ川がドン川に向かって最も西側に屈曲した地点にあり、ここを抑えることはコーカサスや黒海・カスピ海からロシア中心部に至る、水陸双方にわたる複数の輸送路を遮断することにつながった。・・・
共産党中央からは、のちに首相となるゲオルギー・マレンコフ中央委員会書記やニキータ・フルシチョフ軍事会議委員らが派遣され、政治委員として督戦にあたった。また、ラヴレンチー・ベリヤが統括する内務人民委員部 (NKVD) は厭戦的な将兵の摘発や逃亡阻止に努めた。ソ連当局にスターリングラードで処刑された将兵は、1個師団を上回る1万3千人に達している。・・・
史上最大の市街戦に発展、やがては日露戦争の奉天会戦や第一次世界大戦のヴェルダンの戦いを上回る動員兵力、犠牲者、ならびに経済損失をもたらす野戦に拡大した。
緒戦は枢軸軍側の優位に進み、市街地の90%以上を占領したものの、最終的にはソ連軍側の反攻により、ドイツ第6軍を主軸とする枢軸軍が包囲され、降伏した。独ソ戦の趨勢を決し、第二次世界大戦の全局面における決定的な転換点のひとつとなった。・・・
死傷者数はソンムの戦いなどの第一次世界大戦の激戦を遥かに超える規模で、枢軸側が約85万人、ソビエト側が約120万人、計200万人前後と見積もられた。・・・
全体で7万近くのソ連軍捕虜が対独協力者(ヒヴィ)として第6軍に動員されたが、生存者はほとんどいなかったとされる。戦前には60万を数えたスターリングラードの住民は、攻防戦が終結した時点でわずか9796名に激減していた。ヴォルガ対岸に疎開したり、ドイツ軍によって後方に運ばれた人々も少なくなかったが、少なくとも20万人程度の民間人が死亡したと見られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E6%94%BB%E9%98%B2%E6%88%A6
’In 1993, the film won Bavarian Film Awards for Best Cinematography, Best Editing and Best Production. ・・・In Germany, the film earned mixed reviews, allegedly due to the second half of the film containing plot holes, although what these apparent plot holes were is not revealed; this may in fact have been a reference to the film’s bleak and nihilistic ending.’(※)というのですが、私には、独ソの戦いだというのに、両独統一直後の時点で、まだ、ドイツは、ナチス単独凶悪集団説の呪縛の下にあったことが見てとれました。
というのも、一般住民の虐殺を行ったり、腐敗しているものとして描かれるのはドイツ軍側だけだからです。