太田述正コラム#14482(2024.9.25)
<映画評論135:碁盤斬り>(2024.12.20公開)

 今度は、再び邦画の時代劇です。↓

 「2024年5月17日公開の日本映画。・・・古典落語『柳田格之進』をベースにした時代劇映画。・・・柳田格之進:草彅剛<、その娘の>お絹:清原果耶<(注1)>・・・

 (注1)きよはらかや(2002年)。「女優、ファッションモデル、歌手、ダンサー。・・・21世紀生まれとして初めての・・・NHK・・・朝ドラ主演を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%8E%9F%E6%9E%9C%E8%80%B6

 第26回ウディネ・ファーイースト映画祭<(注2)>ブラック・ドラゴン賞(批評家賞)<受賞>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%81%E7%9B%A4%E6%96%AC%E3%82%8A

 (注2)「イタリアのウーディネで開かれる極東(東アジアおよび東南アジア)で製作された映画を対象とする映画祭である。・・・1999年(平成11年)<に>第1回開催<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8D%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E6%98%A0%E7%94%BB%E7%A5%AD

 概ね、「原作」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%B0%E6%A0%BC%E4%B9%8B%E9%80%B2
の骨格を活かし、筋を膨らませたものです。
 草彅剛はもちろんよく知っていますが、TVは大河しか見ない私、清原果耶は初見山であったところ、八面六臂の活躍をしているらしい彼女ながら、まことにもって申し訳ないが、最近新しく知った女優達の中では、Padmaavat(コラム#14464、66、68)の主演女優のディーピカー・パードゥコーン(Deepika Padukone)の「セレブリティとしてのブランド価値はインド人女性で首位であり、全体でもクリケット選手のヴィラット・コーリに次いで2位に選出された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3
気品ある圧倒的な美しさには客観的に見て到底及びませんし、日本人に限定しても、これは主観的な話ながら、私は、桜庭ななみ(コラム#14442)の方が好みですね。
 なお、この映画、及び、原作、の背景には、「江戸時代には武士だけではなく、各地の商人・豪農が棋士を招聘して打ってもらうことがよくあり、落語の「笠碁」や「碁打盗人」などで描かれたように、市井でも盛んに打たれていた<ところ、>一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%B2%E7%A2%81%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
ということがあります。
 なお、この映画を鑑賞した副産物として日本の囲碁の歴史にも日蓮宗がかかわっていたことを「発見」することができました。↓

 「信長、秀吉、家康に囲碁をもって仕え<た>・・・日海<が>後の本因坊算砂(ほんいんぼうさんさ)(1559-1623)<となるのですが、>・・・8歳で京都寂光寺<(注3)>の門に入り<、>また合わせて囲碁を習<うところ、>囲碁の師は堺の仙也。

 (注3)「京都府京都市左京区にある、顕本法華宗の本山。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%82%E5%85%89%E5%AF%BA

 日海は寺の塔頭(たっちゅう)「本因坊(ほんいんぼう)」でくらしていたので、後に本因坊算砂とその名でよばれるようにな<ったもの(注4)>。・・・

 (注4)「本因坊道策の時に寂光寺から江戸に移った。」(上掲)

 1582年、日海は本能寺の変の前夜、信長の御前で<同じく>日蓮宗僧侶の利玄と対局したと伝えられてい<る>。
 ところが、めずらしい囲碁の形(=三コウ)ができ、無勝負となったという・・・。
 三コウを不吉の前兆とするのはこの話から<だ>。
(<この話については、>江戸時代になって伝えられた話で史実とは異なるとする説が今日では有力となってい<る。>)」
https://archive.nihonkiin.or.jp/history/04.html
 「慶長13年(1608年)、大橋宗桂と将棋対局(将棋最古の棋譜)。同年には、日本初の囲碁出版である『本因坊碁経』(詰碁や手筋などを収録)を刊行している。
 慶長16年(1611年)には僧侶としての最高位の「法印」に叙せられている。
 慶長17年(1612年)には、幕府より算砂を始めとする碁打ち衆<と>将棋衆の<計>8名に俸禄が与えられ、算砂は、利玄、宗桂とともに50石10人扶持とされた。同年、将棋所を大橋宗桂に譲ったとされる。・・・
 墓所は京都寂光寺にある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%9B%A0%E5%9D%8A%E7%AE%97%E7%A0%82