太田述正コラム#14492(2024.9.30)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む>(2024.12.25公開)
1 始めに
さっそく、HHさん提供の2冊・・どちらも中田力著・・の1冊目(2012年)をとりあげることにしました。
中田力(つとむ。1950~2018年)は、東大医学部卒、カリフォルニア大デービス校助教、准教授、教授、新潟大教授、等を歴任、という人物です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E7%94%B0%E5%8A%9B
この本の中身をチラ見したら、邪馬台国論争に一石を投じる内容のようです。
どうでもいいこととして、「敬して」ではなく、「敬しないが故に」遠ざけてきたイッシューに、否応なしに直面させられてしまった次第であり、憮然たる思いとこうなったらやらにゃしゃーないなという思いとが交錯しています。
2 『日本古代史を科学する』を読む
最初の章は「二十一世紀の科学」なのですが、この本に関しては全く不要な章だと思うので、全面的に論評は省きます。
「『史記』は、皇帝の命により編纂されたものではなく、したがって、時の為政者の意図が反映されていないのである。
結果として、その記載の客観性が極めて高いと推測されている。
事実、すでに『史記』に記載された多くの故事が史実であることが確かめられている。
始皇帝の兵馬俑はもちろんのこと、伝説とされた、夏、商(殷)、周の古代王朝に至っても、記載通りに存在したことが証明されているのである。」(32~33)
⇒それを言うなら、「『史記』<については、>・・・『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば呉の王家の僚と闔閭の世代間の家系譜など)。宮崎市定は、『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、全てを実録とは信じられないとしている。小川環樹は、司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、とその著書で指摘し、加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98
といったことにも、中田は触れなければだめでしょう。(太田)
「残念ながら、『史記』には日本の記載がない。
日本の記載が中国史書に現れるのは、陳寿の『三国志』である。
だれもが知っている「魏志倭人伝」が収録されている正史である。
二十五正史の中で、書かれたのが『史記』、『漢書』に続いて三番目に古い。
陳寿は蜀出身の晋王朝の史官であった。
石原道博氏によれば、陳寿がまとめた『魏志』巻三十・東夷伝・倭人の条(「魏志倭人伝」)は魚豢<(注1)>の『魏略』<(注2)>の記載をそのまま伝えたものと解釈できるという。
(注1)ぎょかん(?~?年)。「雍州京兆郡(現在の陝西省西安市)の人。・・・魏に仕え、郎中となり、私撰として『魏略』三十八巻・『典略』五十巻を著した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E8%B1%A2
郎中は中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える尚書省の官僚。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%8E%E4%B8%AD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%9B%B8%E7%9C%81
(注2)「三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。・・・<この書自体は>後に散逸した<が、>・・・邪馬台国や大秦国(ローマ帝国か)への言及もあると解されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E7%95%A5
したがって、陳寿の個人的な史観が導入されていないことは確かであろう。」(34)
⇒中田の論理に従えば、「魏志倭人伝」は、「時の為政者の意図」・・魚豢に関しては魏、陳寿に関しては晋、の為政者の意図・・「が反映されてい」ると考えられることの「結果として、その記載の客観性が極めて高いと<は>推測」できないことになってしまうわけですが・・。(太田)
(続く)