太田述正コラム#14508(2024.10.8)
<中田力『日本古代史を科学する』を読む(その9)>(2025.1.3公開)

 「・・・かつての呉の地の難民が・・・北九州に辿り着い<た時、>・・・その地にはすでに、約140年の歳月をかけて勢力を蓄えてきたもともとの呉の民がいた。
 加えて、彼らを率いていたのは自分たちよりも高い家系の王族・貴族たちの末裔である。
 結果として、その地に留まることは許されず、さらに奥地へと向かって日本海を進まざるを得なかった。
 そこは出雲・高志の地である。」(134~135)

⇒もちろん、BC473年の呉の滅亡に伴ってその難民が日本列島にやってきたかどうか、もまた、水田稲作を引っ提げた長江地域の人々の初渡来がそれよりもはるかに昔に遡る以上は、どうでもいいことです。
 付言すれば、本当に、「高い家系の王族・貴族たちの末裔」がBC5世紀前半に日本列島に渡来していたとすれば、その時点で、列島内に国が建国されたり文字記録が残され始めたりしていても不思議ではないのに、そんな形跡は皆無であることはご承知の通りです。
 より重視すべきは、「髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代<支那>の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されている。<支那>では早くから、日本は太伯の末裔だとする説があり、たとえば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『晋書』東夷伝、『梁書』東夷伝などには、倭について「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とある。これらはきわめて簡潔な記事であるが、より詳しい記述が南宋の『通鑑前編』、李氏朝鮮の『海東諸国紀』や『日東壮遊歌』等にある。

 (注19)「古公亶父(ここうたんぽ)は、周初代武王の曾祖父。周の先王の一人。公叔祖類の子。姓は姫(き)。先祖の后稷・公劉の業を納め、国人から慕われた。古公とも呼ばれる。『詩経』では太王。『史記』によれば、武王が殷を討つ前に太王と追尊した。それ以前は太公と呼ばれ、孫の文王が呂尚の事を「太公が望んだ人だ」として「太公望」と呼んだ逸話は有名である。・・・
 殷王室と親交を結び、末子の季歴に王室から嫁(太任)をもらう(列女伝では、摯の任氏の娘で王室の娘ではない)。その嫁と季歴の息子が後の文王である。古公亶父には季歴の他に太伯と虞仲という長男と次男がいたが、古公亶父が「私の世継ぎで興隆するものがあるとすれば昌(文王の諱)であろうか」と予言したので、弟の季歴に位を継がせるために太伯と虞仲は出奔した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%AC%E4%BA%B6%E7%88%B6
 「文王(・・・紀元前12世紀 – 紀元前11世紀ごろ)は、・・・殷の紂王に対する革命戦争(牧野の戦い)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)

 「呉の太伯の末裔説」が形成された下限(史料の初出)は、『魏略』が成立した3世紀後期であるが、呉の滅亡は紀元前473年であるため、時間的隔たりは甚だしい。日本では、南北朝時代の禅僧の中巌円月が、日本を太伯の末裔だと論じたといわれている。一方で北畠親房の『神皇正統記』応神天皇条は、「異朝ノ一書」に「日本ハ呉ノ太伯ガ後也ト云」とあるのを批判しており、室町時代の一条兼良も、『日本書紀纂疏』巻一で太伯末裔説を批判している。イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』は、神武天皇は太伯の2番目の弟である季歴(虞仲と季歴を混同したものか)の第6代の子孫であるとしている。江戸時代に入ってからは、儒学者の林羅山が『神武天皇論』で神武天皇の太伯末裔説を肯定した。村尾次郎は、<支那>人の「曲筆空想」だと指摘し、大森志郎は、「漢民族の中華思想の産物だ」とみなす。千々和実は、綿密な考証を経て、3世紀の倭人の部落が対内的には王権を強化するために、対外的には威望を挙げる需要のために、自分たち民族の始祖を賢人太伯に結びつけたと指摘し、「倭人自称説」を肯定している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2
といったことであって、これらは、日本列島への、「はるかに昔に遡る・・・長江地域の人々の初渡来」伝説が3世紀の支那ないし日本列島に存在したことを示唆するものである、と言えなくもありません。(太田)

(続く)