太田述正コラム#14530(2024.10.19)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その8)>(2025.1.14公開)
「敗戦のショックによって日本は再びもとの非イデオロギー的なあり方に戻った。
現在、社会のすみずみまで浸透している情緒的、本能的な平和主義はその例である。
受動的な若者たち、思想をもたぬ政治家、消極的な外交政策、移り気なジャーナリズム、容易に国中を捲き込むムードやブームの波–これらはみな無思想(イデオロギー)への復帰の例である。・・・
⇒クラークは、私のモード循環論に近いことを言っているところ、そうではなく、戦後日本は、文明の回帰的転換・・プロト日本文明回帰・・を行って現在に至っている、というのが私の主張であるわけです。(コラム#省略)(太田)
日本がイデオロギー社会の型をとりいれようとした時期は他にもある。
中国、朝鮮の広範な影響を受けて中央集権の官僚制が出来上り、一国家としてのイデオロギーをもとうとした7、8世紀の律令制の日本はその一例である。
⇒唐の文明を総体継受しようとしたところの、天武朝の諸政策の大部分は、私の言う聖徳太子コンセンサスからの一時的逸脱であった、というのが私の主張であるわけです。(コラム#省略)(太田)
しかしその頃も日本はその実験を持続させることができなかった。
平安時代に入るや、日本は自然にもとのパターンに戻っている。
⇒それは、日本における初めてのモード転換であった、というのが私の主張であるわけです。(コラム#省略)(太田)
また、徳川時代にもイデオロギー的価値(儒教)や制度をとり入れようとした。
しかし、そうした制度がいかに脆弱なものであったかは、明治維新の際それが簡単に廃棄されたことによって立証されている。」(181~182)
⇒そんなことを言いだしたら、「日本の西洋化に貢献する一方で伝統的な儒教を重視し、「世外教」(仏教、キリスト教など)の否定と「世教」(西洋哲学、儒教)による道徳教育を推進した・・・西村茂樹<(1828~1902年)は、>・・・明治20年(1887年)に、西村の主著として知られる『日本道徳論』を刊行した。当時、日本の近代教育制度が整備されつつあり、国民教育の根本精神が重要な問題としてさまざまな論者によって議論されるようになっていた。西村は、首相・伊藤博文をはじめとする極端な欧化主義的風潮を憂慮し、日本道徳の再建の方途として、伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとし、勤勉・節倹・剛毅・忍耐・信義・進取・愛国心・天皇奉戴の8条を国民像の指針として提示した。文部大臣の森有礼はこれを読んで大いに賛成した年(1873年)に、福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社を結成。また同年11月24日、文部省に出仕し編書課長に就任、以後1886年まで省内で儒教主義的徳育の強化政策を推進した。また漢字廃止論者として明治7年(1874年)には『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』を発表した。一方で明治8年(1875年)3月には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まりである洋々社を結成する。3月『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表。明治8年(1875年)から天皇、皇后の進講を約10年間務め、東京学士会院会員、貴族院議員、宮中顧問官、華族女学校の校長をつとめた。また、文部省編輯局長として教科書の編集や教育制度の確立に尽力。修身の必要性を訴え、明治9年(1876年)4月に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする修身学社(現・社団法人日本弘道会)を創設した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9D%91%E8%8C%82%E6%A8%B9
という、西村茂樹の明治時代における活躍や、「天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、1879年(明治12年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた<が、>元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調し<、>井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E5%8B%85%E8%AA%9E
という、教育勅語制定経緯、を、理解することができなくなってしまいます。(太田)
(続く)