太田述正コラム#14534(2024.10.21)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その10)>(2025.1.16公開)
「・・・イデオロギー指向–抽象概念や原則で行動する能力–は、人間の心理の中の知的側面を強調する指向であり、一方本能的、集団的指向は人間の感情の側面を強調する指向である。・・・
⇒集団的指向を本能的指向と一緒に括ってはいけません。(太田)
もし日本の社会集団がより強力で、支配力があるとすれば、それはその集団が直接的な人間的絆を基盤としているからである。
しかし外国では日本の集団よりももっと強力な集団が、存在している。
たとえば宗教団体、労働組合、政党、階級、カースト、氏族などをあげることができよう。
なぜ強いかといえば、これらの集団が一定の抽象的な概念への執着を基盤として形成られている点であって、かかる集団は直接の人間的情緒的交流に依存しない。
⇒やっぱり、(私とは異なった観点からですが、)クラークも「感情の側面を強調」しない「集団的指向」の存在を指摘しています!(太田)
よく引かれる例に、日本でトラックの運転手にその職業をきくと、「何々会社に勤めている」と答える。–というのがある。
われわれ欧米人はこの返答の中に異常なグループ意識の証左を見るのである。
しかし一方では、単に「トラック運転手だ」と答える外国の運転手の言葉には、もっと重要な意味が含まれていることには気付かずにいる。
この外国のトラック運転手は情緒的人間環境の中に自らを位置付ける(アイデンティティーを求める)のではなしに、その職務の中に自らのアイデンティティーを求め、それが彼自身の思想体系の基本になっているのである。
つまり彼は他人との絆(感性的なもの)を求めようとする人間の正常な衝動に背を向けて、抽象的な観念(知性的なもの)に自らを委ねているある。・・・
世界史上最も激しい国家間の紛争が繰り返された地域–西欧–において、科学革命がなされたのは単なる偶然ではあるまい。
⇒繰り返しますが、「激しい<近似した>国家間の紛争が繰り返された地域・・・において」は、それがどこであれ、文系理系の科学技術が発展するのです。
なお、「科学革命」という言葉でクラークの念頭にあるものが定かではありませんが、私見では「経験科学」の誕生/確立こそ「科学革命」の名に値するのであって、それは地理的意味での西欧においてではあっても、プロト欧州/欧州文明においてではなく、アングロサクソン文明においてなされたのであり、それは「国家間の紛争<の>繰り返<し>」だけで説明することは不可能なのです。(コラム#省略)(太田)
しかし同時に、教義や信仰に最も熱心に従ったのも同じく西欧の人間であった。・・・
⇒とんでもありません。
例えば、チグリス・ユーフラテス文明、も、エジプト文明、も、イスラム文明、等も、「教義や信仰に・・・熱心に従った」ところ、クラークは、いかなる根拠でアングロサクソン文明やプロト欧州/欧州文明が「教義や信仰に最も熱心に従った」と主張したのかを明らかにすべきでしたが、そもそも明らかにできる訳がありません。(太田)
欧米の科学やインド、中国の哲学に見られる洗練された知性は、日本の社会と芸術のもつ洗練された感性に匹敵する。
ただし、その二つのアプローチは、本質的に、ちがった基盤からでている。
さらに重要な点は、日本人の場合でも、感性的なものも当然の事ながら、霊的、形而上学的なものを拒否するわけではないという点である。
原始宗教や迷信は、思想体系をもつ以前の社会すべてに見られる現象である。
重要な点は、<日本では>これらの信仰がそのままの形で今も残っている事実である。
思想体系にしばられた社会とは異なり、信仰を正当化したり、それに原則や教義を付与しようとはしていない。
<日本の>禅の直観性と反教義性はその好例であろう。」(183~185)
⇒ここも間違いですね。
神道こそ「直観性と反教義性」は当てはまるけれど、日本における禅は仏教諸潮流の一つに過ぎず、かつまた、仏教の「教義」を前提にしていて、ただ、悟りに至る方法として「直観性」を重視しているだけだからです。(太田)
(続く)