太田述正コラム#14536(2024.10.22)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その11)>(2025.1.17公開)

 「・・・明らかに理論よりも実践を、抽象的なるものより具体性のあるものを好む、知性主義に背を向け<る>日本人<。>・・・

⇒「均質的で阿吽の呼吸も使える日本では、現場が気合と根性で頑張ることで仕組み化しなくても問題解決できてしまうことが多くあります。従って、抽象化思考を身につけるには適していない環境と言えるでしょう。」
https://diamond.jp/articles/-/305182
における、「均質的で阿吽の呼吸も使える日本」とは、「人間主義(じんかんしゅぎ)社会の日本」ということであり、この限りにおいてはクラークの言っていることは正しいが、マン・マシーン・システム・・刀や弓矢はそうではないがチャリオット、弩や投石器は既にそうだ・・を作り使いこなすにあたっては、そんな日本でも「抽象化思考を身につける」必要があり、弩を殆ど用いず、チャリオットや投石器は全く用いなかった日本において、銃器が導入された安土桃山時代に数学研究者が初めて出現した
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%87%8D%E8%83%BD
ことは、本格的戦争の長期にわたる持続が抽象化思考をもたらす、ということを示しています。
 文化や文明によって抽象化思考が忌避される、というわけではないのです。(太田)

 日本人<は>一方ではかなり排外的でありながら、他方では驚くほど外来思想に対して開放的である・・・。
 要するに日本人は自己のアインデンティティーを追求する次元では排他的であり、その他の次元では開放的なのである。

⇒プロト日本文明/日本文明の日本人は、基本的に、人間主義という普遍的な価値を体現していることから、この価値に抵触する宗教や思想やイデオロギーに対しては「排外的」ですが、それ以外のあらゆる外来の宗教や思想やイデオロギーに対して開放的なのです。(太田)

 外国人の場合はその逆である。
 すなわち、われわれは外国の思想や言語の無制限な導入には抵抗する。
 それはわれわれの知的なアイデンティティーを脅かすからである。
 しかし、われわれは外国人が自分たちに混って生活しようが、一緒に働こうがあまり気にかけない。
 つまりわれわれは人間関係のレベルでの混乱は、それほど気にしない。

⇒普通人や弥生人にはその逆が成り立つというわけです。
 また、日本人が、普通人や弥生人と「混って生活し」たり「一緒に働」いたりすることに抵抗を覚えるのは当然です。
 だからこそ、日本人は移民の受け入れに極めて消極的なのです。(太田)

 このことは、なぜ海外の日本人が一方では現地社会に全く融け込んでいない(バンコックやニューヨークの「リトル・ジャパン」がその例)半面、他の極では完全にその国同化している(ブラジルの例)という両極端を示す理由の説明にもなる。
 外国人の場合、われわれはその中間を行くことができるのである。
 つまりわれわれは母国の民族的、文化的な抽象理念にしがみつくことによって、海外でも自己のアイデンティティーを保とうとするからである。」(186)

⇒日本人は基本的に人間主義者であるだけに、短期滞在の場合は普通人や弥生人からなる海外社会へ融け込みにくい一方、帰化する場合は現地の普通人や弥生人の気持ちを忖度して言動を律するように心がける結果、2世の時代には、普通人や弥生人化してしまう結果、人間主義者としての父母のアイデンティティーを早くも失ってしまうのです。(太田)

(続く)