太田述正コラム#14552(2024.10.30)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その19)>(2025.1.25公開)
「・・・非日本の民族・・・<で>一つだけ共通していることがあります。
そのただ一つの共通項が明治維新まで日本にはなかったんです。
それは外国との戦争です。それで全部説明できるのではないかと、私は思います。・・・
⇒要するに、クラークは、ルース・ベネディクトが言うところの、(菊ならぬ)刀の要素も日本の歴史の中で重要な役割を果たしてきたということ、を、真っ向から否定しているわけです。(太田)
内戦だったら、義理人情などの家族的価値観が使えます。
相手は「それがわからない人間だ」といえば、それで十分です。
ところが外国人が相手となると、家族的価値観が利用できません。
⇒クラークは、内戦と外戦の定義をしていません。
彼の「母国」の例で言えば、スコットランドがイギリスから完全に独立する結果をもたらしたところのスコットランド独立戦争(Wars of Scottish Independence。13~14世紀)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E6%88%A6%E4%BA%89
は内戦なのでしょうか外戦なのでしょうか、また、英仏が別々の国なるという結果をもたらしたところの英仏百年戦争(Hundred Years’ War。1337~1453年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
は内戦なのでしょうか外戦なのでしょうか?
というか、この2つの例だけからも、内戦と外戦とを区別することそのものに無理があるのではないでしょうか。(太田)
日本人同士なら義理というのはすぐわかります。
相手がアメリカ人だと、けしからんことに、義理という言葉の意味がわからない、アメリカの社会の中で義理という価値観がないのですから、仕方がありません。
だから外国人と戦争すれば、相手がまちがっていることを証明するために、普遍的な価値観が必要になる。
そのために、イデオロギー的なもの、宗教でもいい、主義とかそういうものをもとうと努めるようになる。
自分のもっている家族的価値観を、普遍的なイデオロギーに変身させなくてはなりません。」(32~33)
⇒上で挙げた、スコットランド独立戦争と英仏百年戦争の2つが、仮にどちらも外戦だったとして、それぞれの過程で、いかなる普遍的なイデオロギー/宗教を戦争当事者それぞれが掲げるに至ったのでしょうか。
後から振り返ってみれば、英仏百年戦争の結果、両国において国家/国民意識が生じた(注12)けれど、それまでにも、地理的意味での西欧において、国家/国民意識がなかったわけではありません(典拠省略)し、少なくともフランス側においてフランス・ナショナリズムが生まれたことをもって一種の「イデオロギー/宗教」が生れたとはいえ、それは、(揚げ足をとるようですが、)論理必然的に「普遍的」なものたりえません(注13)よね。
(注12)「百年戦争は、開戦直後には「フランス王」と「<イギリス>王」の個人間の争いと認識されていた。しかし戦争中に締結された条約では、1360年のプレティニー・カレー条約は国王とともに「二つの王国」が当事者となり、1396年のパリ休戦協定では、国王、王国のほか「臣民」が当事者に加わった。その後、1420年のトロワ条約では当事者が「二つの王国」へ一本化され、百年戦争の最終盤においては、少なくともフランスでは「フランス人」と「<イギリス>人」の戦争と認識されていた。そして1454年の王令で「敵<イギリス>人」と公式に記載された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
(注13)「フランスでは14世紀末以降、文筆家がイングランド人の習慣や気質を誹謗する著作を行い、祖国愛を語り始めた。これらを通じて、パリ地方の方言がラングドイル(北仏語)やラングドック(南仏語)のほか各地の言葉を陵駕し、フランス語の統一が進んだ。」(上掲)
クラークは、(上述したように、「内戦と外戦の定義をし」た上で、)自分の主張に適合する事例を、少なくとも2つ以上、提示すべきでした。(太田)
(続く)