太田述正コラム#14562(2024.11.4)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その24)>(2025.1.30公開)

 「・・・自民党をはじめ、大きな組織、三井にしても三菱にしても、あるいは新日鉄にしても、みんな人間関係では容易に動けなくなっている。
 人間関係で動くには、直接会わなくてはならない。
 毎日いっしょに飲み、いっしょにおふろに入らなくてはならない。
 400人、500人、1000人くらいの組織になると、それは不可能です。
 その調和を守っているのが派閥です。
 細胞が一かたまりになって器官をつくるように、派閥ができ、その器官と器官のあいだにも同じような人間的な調和が守られている。・・・

⇒人間関係主義ならぬ、私の言うところの人間主義、は、初対面の相手どころか、動植物や自然とすら協働するものであり、そもそも「毎日いっしょに飲み、いっしょにおふろに入」ることが不可能な場合の方が多いでしょう。
 なるほど、組織の中で、或いは、市場相手に、仕事をする場合は、直接の仕事の相手方たるごく少数の人々とは長期的関係を樹立すべく、「「毎日いっしょに飲み、いっしょにおふろに入」しようとはする場合もあるけれど、それは、相手の選好を把握した上でエージェンシー関係を樹立する、という合理的目的によるものです。(コラム#40、42、43)
 クラークは、この場合は「全く」とまでは言いませんが、「さほど」土地勘のない分野の話を印象論的思いつきだけで語ってしまっています。(太田)

 レーニンは、原始的な共産主義といわれていますが、ソ連の共産主義のもともとの哲学は、原始的な共産、部族主義に戻るということにあります。
 レーニンはこの面では理想主義者だったのです。
 部族社会をみると、人間関係が非常にうまくいっており、搾取もないし、利害関係もうまく自然に調和されている。
 それを見て、同じような社会をつくろうという新しいイデオロギーをつくった。
 しかし問題な、イデオロギーによって、部族社会、日本と同じ人間関係社会に戻ることが不可能だということにあるんです。
 目標と手段が矛盾している。
 だから共産主義は必ず失敗に終わるんです。」(47~48)

⇒「1924年のヨシフ・スターリンによる『レーニン主義の基礎』での定義<では、>・・・レーニン主義は、帝国主義およびプロレタリア革命時代のマルクス主義である。もっと正確にいうならば、レーニン主義とは、一般的にはプロレタリア革命の理論と戦術であり、特殊的にはプロレタリアート独裁の理論と戦術<・・・>である」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E4%B8%BB%E7%BE%A9
のであって、レーニン自身は、原始共産主義社会ないし共産主義社会について何も語っていない以上、少なくとも「この面では」理想主義者ではなさそうです。
 マルクス/エンゲルスだけに語らせて自身は一切語らなかったのですからね。
 ここでも、クラークは杜撰な主張を展開しています。
 他方、世界政府が樹立されるまでの間は、人間主義社会への直接の回帰は不可能であり、人間主義性(縄文性)と弥生的縄文性からなるところの日本文明の総体継受を図るしかないわけです(コラム#省略)が、「日本文明の総体継受を」いかにして「図る」か、も、一種の思想/イデオロギーであって、クラークは自分が何を言っているのか分かっているとは思えません。
 昔なら、特定国または地域から相当数の人間が戦前の日本に長期滞在して人間主義と縄文的弥生性をそれぞれ身につけて戻り、特定の地域で集住し、そのデモンストレーション効果で周りの人々を感化して行く、という、迂遠な方法をとるしかなかったけれど、現在では、日本の映画やTVドラマやアニメや漫画を輸入して、それらから感化を受けた人々が日本観光をしたり日本に長期滞在したりして人間主義と(縄文的弥生性ならぬ)弥生的縄文性をそれぞれ身につけて戻る、という、より効果的な方法があるのであって、現に、習近平の中共がかかる思想/イデオロギーに基いて日本文明総体継受戦略を追求している、と、私は、かねてより指摘しているところです。(コラム#省略)(太田)
 
(続く)