太田述正コラム#14564(2024.11.5)
<G・クラーク『ユニークな日本人』を読む(その25)>(2025.1.31公開)

 「・・・日本<に>・・・階級がないのはたしかです。
というのは、・・・階級とは抽象的なもので、抽象的な芯のようなものがないとつくれない。・・・
 階級は一種の哲学であり、思想です。
 その思想のもち主である人々がグループをつくる。
 インドの場合はカースト、中国の場合は大家族。
 いままでの欧米の社会学者は、中国の大家族を見て、中国は家族的社会であると考えた。
 これは大きな間違いなんです。
 中国の大家族というのは、階級と同じように抽象的な原則の上にできあがっています。
 この場合、原則は、それぞれの人の姓、たとえば「王」ということになります。・・・
 上海の王も、広東の王も、顔は見なくても、同じグループなんです。
 日本の場合は、顔を見ないとグループをつくることができない。
 これは根本的な違いなんですね。
 だから日本には、夫婦養子というものもできた。
 血はつながっていなくても、顔を知っていて気心が知れていればいい。
 中国人の場合、血が濃いというのが一種の原則になっている。
 欧米、とくにイギリスでは、階級、言葉のなまりが一種の原則になっている。
 同じなまり、発音をもっていれば、同じグループの人である。
 だから、欧米社会は抽象的なグループであり、日本は人間関係のグループということになる。
 日本のグループはある場合は派閥の形をとり、もちろんその派閥の中では平等主義ではない。
 むしろひどい上下関係ですね。
 その”ひどい”というのは、いわゆる家族的な上下関係のことですが、われわれ欧米人がそのいわゆるタテ社会を見ると、日本の社会は平等じゃないと思いこんでしまう。・・・
 <でも、>グループのなかではそんなに平等ではないですけれど、社会全体のなかでは平等なんです。
 欧米はその逆で、社会全体の中で平等ではなくてもグループのなかではわりに平等なんです。」(53~54)

⇒支那の合同家族(注18)は父系、中東の部族(注19)は概ね父系であるところ、支那の合同家族も中東の部族同様、儒教成立より前の「極めて古代から<の>文化<を引き継いで>」いると思われるのであって、儒教は、その正当化目的で後付け的に使われただけだと見るべきでしょう。

 (注18)「伝統的な<支那>家族の理想型は合同家族である。合同家族とは、成人した子供(男子)が結婚後もその妻子とともにすべて親の家にとどまって生活する家族類型をいう。かつての日本の直系家族のように長男のみが単独に相続する場合とは異なって、女子を含むすべての子供が親の財産を均等に相続し、とりわけ男子は結婚後も親の家にとどまって大きな家族をつくることが理想とされた。しかし実際には合同家族においても父親の死後、それぞれの子供夫婦が核家族単位に分裂するのが普通であった。このような事情から、<支那>家族の主要な部分はかなり以前から核家族であった。
 <支那>の家族は、家族の上位集団をなす宗族(そうぞく)の一部とみることもできる。宗族は同じ出自集団とみなされる同姓集団であって、同姓の家族は原則として同じ祖先をもち、同じ宗族の一員と考えられている。そして現実には、同じ地域に住む同姓の家族が宗族としての結合意識をもち、祖先祭祀や相互扶助などを行っている。宗族の範囲を絶えず確認する目的で一族のすべての名前や略歴を記載した族譜がある。族譜に記載された範囲が同一宗族の成員であり、成員としての権利・義務を共有する。族譜を管理し、絶えず更新するのは宗族の役割の一つである。
 <支那>の家族の重要な機能の一つは祖先の祭祀であり、宗族所管の祀堂において宗族のレベルでの祭祀をする。代々にわたって祭祀を営んでいくために、どの家も跡取りとしての男子が必要とされる。養子を迎える場合にはかならず血縁者でなければならない。宗族はまた外婚の単位であり、同姓の者同士は結婚することができない。個人は家族の一員であると同時に宗族のメンバーでもあるので、宗族を表す姓を生涯にわたって保持していかなければならない。妻が結婚後も夫方の姓を名のることなく、生涯にわたって自己の出自の姓を保持するのは、家族への所属よりも宗族への所属を重視することの表れである。夫婦の間に生まれた子供は父系制に従って父親の姓を名のることになる。親孝行に代表される儒教倫理は家族生活を根強く支配しており、伝統的な<支那>家族では家父長的な色彩が強かった。年老いた親を扶養するのはすべての子供の責務であり、老後のために子供をもつことはどの家族にとっても大きな関心事であった。ただし今日の中国では、結婚後妻が夫方の姓を名のることは選択の問題とされ、自由裁量に任されるようになってきている。」
https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=1983
 (注19)「部族とは、一言で述べると「同じ血統・系譜意識を共有する集団」として定義できる。血統や系譜意識は集団のなかで連帯感を生み出し、まとまりをつくる。中東の厳しい自然環境のなかで、遊牧民などは歴史的に部族を単位として生活し、水場を確保したり生業を営んだりしてきた。・・・
 部族は特定の地域に集住するばかりではなく、時には国境を超えて存在する。たとえば、アラブの有名な部族にシャンマル部族があるが、サウジアラビアからイラク、ヨルダン、シリアにかけて広範に分布している。」
https://bizgate.nikkei.com/article/DGXMZO3113976030052018000000?page=2
 「ビント・アンム婚・・・は、・・・極めて古代から<の>・・・文化<を引き継いで、>・・・イスラーム世界で広く行われる父方平行いとこ同士の結婚。・・・ビント・アンム婚の割合はクルディスタンの部族地域の43%からレバノンの2%までの差異があり、・・・推計によれば全婚姻数のおよそ10-15%である。エジプトの場合は20%近く、スーダンの場合は80%である。・・・イスラム社会では婚約にあたる夫の方から妻の方へ婚資(マハル)を支払う習慣があるが、近親同士の結婚の場合は赤の他人同士の結婚の場合の半額程度で済むため、金銭の負担が軽減される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%A0%E5%A9%9A

 イギリスの階級は、私見では階層であって、(階級間移動はできないけれど、)希望すれば、階層間移動ができる(コラム#省略)・・それを象徴しているのが、英国でのインド人の首相就任であり、ナイジェリア人の保守党党首就任、に対するに、フランスでのそういう事例の非発生・・のだけれど、かかる、地理的意味での欧州における階級/階層、は、ゲルマン人の原住民征服・支配の結果として形成されたのであって、別段、そこに哲学/思想など介在していない、というのが私の見解であって、ここでも、クラークは間違っています。
 もとより、カーストに関してだけは、確かに、一種の哲学/思想の産物ですが・・。(太田)

(続く)