太田述正コラム#14592(2024.11.20)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その1)>(2025.2.15公開)
1 始めに
次は、クラーク本同様、上梓当時に自分が読まなかったことを後悔している浜口恵俊『間人主義の社会 日本』です。
クラーク本とは違って、これは、私が上梓当時買ったくせについ最近まで手つかずに書架に眠っていたのですからなおさらです。
なお、浜口恵俊(えしゅん。1931~2008年)は、京大院博士課程単位取得、[米国イースト・ウエスト・センター高等研究員、]竜谷大助教授、阪大助教授、教授、国際日本文化研究センター教授、滋賀県立大教授で、この本(1982年)でサントリー学芸賞を受賞しています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E5%8F%A3%E6%81%B5%E4%BF%8A
https://www.suntory.co.jp/sfnd/prize_ssah/detail/1982sf1.html ([])
浜口の海外長期滞在経験が極めて限定的であることが、日本論を展開する際、彼のハンデになった可能性があります。
豊富な「海外」長期滞在経験があったクラークの日本論があれほど欠陥の多い代物になってしまったのですから、それがあることは、もちろん、十分条件でもなんでもありませんが・・。
2 『間人主義の社会 日本』を読む
「・・・これまでの日本研究では、欧米の社会理論への傾倒が大きかったためか、方法論的個人主義<(注1)>が普遍的な分析枠組みだとされ、いまだにそこからの脱却がなされていない・・・。
(注1)「経済学におけるオーストリア学派の創始者となったカール・メンガーは、ドイツ歴史学派の方法を批判して、個人の行動を基礎に経済学を組み立てる方法の有効性を主張した。社会科学の方法として方法論的個人主義を明確に位置づけたのは、シュンペーターである。それにより政治思想としての個人主義と社会科学の方法論としての個人主義とを明確に区別された。・・・シュンペーターの考えは、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス、フリードリヒ・ハイエク、カール・ポパーなどによって引き継がれたが、彼等は集産主義(Collectivism)への強い反対者であったから、政治的個人主義との区分はかならずしも明確ではない。
新古典派経済学は、基本的に方法論的個人主義に立っている。ミクロ経済学の典型であるArrow-Debreuの理論では、個人は自己の効用関数をもち、予算制約下に自己の効用を最大化すると仮定されている(消費者行動の理論)。経済学のこの立場は、分析方法としては合理的選択理論とも呼ばれている。この方法は、近年(1950年代以降)、政治学の方法としても取り入れられている(公共選択論)。
このような考えに対しては、(1)個人の効用関数は、社会(周囲の人たち)による影響と形成を受けている(方法論的全体主義)、(2)人間の選好や効用は不合理なものである、(3)最適化しようとしているが、合理性の限界に阻まれている、という3種類の批判がある。(1)はヴェブレン、(3)はハーバート・サイモンの限定合理性などに起源ないし原型がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E6%B3%95%E8%AB%96%E7%9A%84%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
⇒イギリスは、その平時の組織外の社会に関しては、世界でほぼ唯一の「政治思想としての個人主義」社会なので、その限りにおいては「方法論的個人主義」的にその分析することが可能ですが、それ以外の社会に関しては、およそ「方法論的個人主義」は有効ではない、というのが私の考えです。(太田)
その立場では、自律的な行動主体としての”個人”が、社会の構成要因であるとともに、分析の基本単位だとされる。
だが、実際の日本人は、それぞれに独自な意思を押し通そうとする欧米型の自律性を示さない。
日本に真の意味での”個人”がいるのかどうか、本当は疑わしいのである。」(5)
⇒言いたいことがたくさんあるのをぐっとこらえて、とにかく、先に進むことにしましょう。(太田)
(続く)