太田述正コラム#14606(2024.11.27)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その8)>(2025.2.22公開)

 「・・・米山俊直<(注12)・・・の指摘のとおり、私たちが互いの関係を<縁>の視点から眺める場合には、合理的な認知を超えた、巨大な時間的空間的広がりを前提にしている。

 (注12)1930~2006年。三重大農卒、京大院(農学)修士、イリノイ大社会人類学部助手、京大院博士課程単位取得退学、同大農助手、甲南大文助教授、京大教養部助教授、同大博士(農学)、同大総合人間学部教授、同大名誉教授、大手前女子大学長(大手前第学長)。「専門は人類学、農村社会学で、アフリカの農村研究を基点にした文化人類学で知られる。1950年代後半より日本の農山村をフィールドとして人類学調査を行い、1960年代後半からは今西錦司を隊長とするアフリカ調査に参加した。タンザニアのイラク社会、マリ共和国のバンバラ社会、モロッコ・フェズなどで調査を実施した。
 日本の祭りについても幅広く研究し、京都の祇園祭や大阪の天神祭などを取り上げている。京都学を提唱し、その世界的な拠点とすべく国際京都学協会を設立して理事長を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E5%B1%B1%E4%BF%8A%E7%9B%B4

 そこでは、個人と個人との出会いから対人関係が生まれるのではなく、最初から無限大の規模をもつ対人的連鎖のシステムがあって、そのサブ・システムとしての特定者間の関係が眺められるのである。
 したがって、ある特定の対人関係は、それ自体が自立したきずなを構成しているのではなく、あくまで他のもろもろの関係と相関し、直接・間接にそれのさまざまな影響を受ける、きわめて相対的な性格の人的つながりを意味することになろう。
 要するに、<縁>という観念のもとでは、「連続性の中ではじめて人間関係が成立する」(藤岡喜愛<(注13)>・・・)という基本認識がある。・・・

 (注13)よしなる(1924~1991年)。京大理(植物)卒、大阪市立第助手、京大人文化学区研究所助手、同大付属病院精神神経科助手、同大博士(医学)、兵庫県立医科大助教授、愛媛大教養部教授、甲南大文教授、大手前女子大教授。「毎日出版文化賞受賞。・・・精神医学と人類学を一つにした精神人類学を唱えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%B2%A1%E5%96%9C%E6%84%9B

⇒前述したことの繰り返しになりますが、ここでも、「連続性」の中に、人間以外の生物、や、自然、が含まれていないところに、米山や藤岡の主張に物足らなさを覚えます。(太田)

<他方、>個人主義文化における社会関係の締結の原理は、・・・「契約の原理」と呼びうるだろう。

⇒やはり、前述したことの繰り返しになりますが、個人主義文化の中核はアングロサクソン文明であって、プロト欧州/欧州文明は個人主義文化とは言い難いけれど、浜口の念頭にあるのは欧米諸国の文化=個人主義文化、ではないでしょうか。
 私の主張の裏付けとして、取り敢えず、「個人主義文化のある国家の例としては、イギリスやカナダ、<米>国、オランダ、北欧諸国など<がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
と、’Many Catholics have believed Martin Luther and the Protestant Reformation were sources of individualism.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Individualism
と、を挙げておきましょう。
 前者の地域≒後者の地域≒イギリスとイギリス系諸国とイギリス周辺諸国、であることに注意。(太田)

 その原理を最初に明確化したF・L・K・シューを祖述しつつ、佐藤慶幸<(注14)>は、つぎのように記している。」(22~23、25)

 (注14)よしゆき(1933年~)。早大文(社会)卒、同大博士(文学)、同大文助教授、教授、名誉教授。
https://enpedia.rxy.jp/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%85%B6%E5%B9%B8

(続く)