太田述正コラム#14608(2024.11.28)
<浜口恵俊『間人主義の社会 日本』を読む(その9)>(2025.2.23公開)
「・・・なお、シュー説については、シュー<(注15)>『比較文明社会論–クラン・カスト・クラブ・家元–』<(注16)>〔作田啓一・浜口恵俊訳〕、昭46、を参照されたい・・・。・・・
(注15)F.L.K.Hsu(許烺光)は<米>国籍を持つ<支那>人である。1909年10月・・・南満洲遼東半島の荘河で生まれた。上海大学2年生の時満州事変に遇い、1933年卒業。大連で官憲に拘留されるも脱走して北京に至る。1937年ニッカ事変の年にロンドン大学に留学、機能主義人類学の大火マリノフスキー下で人類学を学ぶ。1941年、南ア、インド、ビルマからの蒋援ロードを経て帰国、雲南大学にて社会学、人類学を教える。1944年、渡米、コーネル大学を経て、ノースウエスタン大学人類学科教授となる。1966~70年、国立東西文化センター(ハワイ大)高等研究院として比較文化論の研究にとりくんだ。又、日本では1964~65年に京都大学教育学部にて「心理社会学」を講義している。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238215/1/shirin_057_6_904.pdf
(注16-1)「本書は2つの仮説を提示し、論証しようとしている。
<まず、総論的部分から取り上げよう。(太田)>
第一の仮説は、<支那>人、ヒンズー人、<米国>人及び日本人が各社会に対処する仕方は、各社会固有の心理・文化指向(価値志向)によって規定される、ということである。
つまり、<支那>人は状況中心主義ないし交互的依存(situation-centeredness or mutual dependence)の、ヒンズー人は超自然中心主義ないし一方的依存(upernatural-centeredness or unilateral dependence)の、<米国>人は個人中心主義ないし自己依拠(individual centeredness or self-reliance)の、そして、日本人は状況中心主義ないし交互的依存の価値志向をもつ。そして、このような価値志向に規定される典型的な第二次集団がクラン(族)、カスト、クラブ及び家元である。
第二の仮説は、人の最も基本的な関係は仲間との関係であり、その結果、世界のあらゆる諸関係は、仲間うちの関係の擬制となるか或いはそれに統合されるという過程である。具体的にいえば、次のようになろう。最も基本的且つ重要な社会集団は親族(家族)集団=第一次集団である。社会の様ざまな人間関係を結ぶ非親族集団は第二次集団とよばれる。両集団の間には密接な関係があり、親族集団の諸属性が第二次集団との関係を規定する。つまり、<支那>の父=息子の関係がクランの発達を、インドの母=息子の関係がカストの発達を、<米国>の夫=妻の関係がクラブの発達を、そして日本の父=息子の関係が家元の発達とそれぞれ関連している。・・・
著者は、各社会組織の特性やパターンを「構造」と「内容」の2側面から分析する。
著者によれば、「構造」とは「人々のいろいろな役割を結びあわせる種々の義務や責任の、空間的かつ時間的な網状組織」であり、「内容」とは「諸個人間の相互作用の性質上の様式(モード)である。・・・
両者はもちろん相互に連関している。しかし構造上の類似性が必ずしも内容での類似を意味するわけではない。著者の構造主義者に対する批判は、主として、彼らの研究が「構造」の比較のみを重視しており、「内容」の分析を無視しているという点にある。」(上掲)
⇒各論的部分を読まなければ何とも言えませんが、支那と日本が「状況中心主義ないし交互的依存」と「父=息子関係」の重視、において共通しており、にもかかわらず、前者が「クラン」、後者が「家元」、という丸で異なる第二次集団を形成した、ということに大いなる違和感を覚えますし、そもそも、日本人は個人主義者でこそないけれど、非集団主義者であって、個は確立している、というのが私の考えであるところ、日本人を「状況中心主義ないし交互的依存」としていることも違和感があります。(太田)
(続く)