太田述正コラム#14672(2024.12.30)
<木村敏『人と人との間』を読む(その3)>(2025.3.27公開)
「・・・他者にとっての自己のあり方を責める、という構造は、日本人のメランコリーにおけるより純粋な自己志向的罪責体験についてみるとき、いっそう明瞭になる。
34歳の日本人女性の遺書の一部。「皆々様に悪影響を及ぼさねば生きていけぬ我身の情なさ、こうして死ぬことによってお詫びするのが唯一のまごころとお許し下さいませ。」
56歳の日本人男性。「私みたいな人間の屑は、この世にいない方が皆のためになる。」
ここでは、自分が存在すること自体が皆の迷惑になる、ということが述べられている。
ここに出てくる「皆」とか「世の中」とかいう不特定多数の審判者<的なもの>・・・が、患者の体験の中に現われてくることは、ドイツ人の患者には決して見られなかったことである。
このような場合、ドイツ人ならば「私は道徳的、宗教的に罪深い人間である」というような表現が用いられるであろうと思われる。
つまり、このような「世の中」に対する罪責体験は、元来自己志向的に自覚されるべきはずの罪が、他者志向的に拡散されて体験されたものである。
この他者志向性は、上述のドイツ人の例の場合のように、自己志向性から因果論的に二次的に導き出されたものではなく、すでに一次的に連帯的な自己志向性の現われであり、日本人の自己志向性の中に元来含まれている他者志向性の表出なのである。・・・
⇒木村自身の言い訳によれば、このくだりはドイツ人向けに書いたものの邦訳なので読みにくくなったということのようなのですが、表現の問題ではなく、木村自身の頭が固いので読みにくいのです。
以前似たようなことを指摘した(コラム#省略)ように、規範意識が、日本人の場合、人間主義という人間の本能に根差す自律的なものであるのに対し、欧米人、就中、欧州人の場合は、キリスト教という他律的なものに根差している、つまり、どちらかというと、ルース・ベネディクトの、恥の日本人/罪の欧米人、なる主張は間違いで、むしろ、そのあべこべが正しい、という簡単な話なのに・・。
なお、私が、ここで、「欧米人、就中、欧州人」という書き方をしたのは、アングロサクソンについては違うかもしれない、という躊躇が私にあるからです。(太田)
御先祖様に対して申訳ない、御先祖様に顔向けができない、という罪責体験が、すぐれて日本的なものであることは、いうまでもない。
これはいわば、日本人の(ベンダサン流に言えば「日本教徒」の)宗教的罪悪感である。
だからこれは、ドイツ人の場合の神に対する罪悪感に対するものとみなしてよい。
⇒木村自身も、ほんの少しですが、私の立場に接近したようなことを言いだしていますね。(太田)
しかし、外人にはとかく誤解されやすいことなのだけれども、この「御先祖様」というのは、かつて実体として存在したこの先祖、あの先祖、といった先祖個人個人のことではない。
ベネディクトは、「日本の祖先崇拝は最近の祖先に限られている」(『菊と刀』)と言っているが、それは墓石に名を刻まれた祖先、仏壇に安置されている位牌の意味においてであって、それはいわば、生存している個人にとっての忘れがたさ、懐しさの対象としての個人的な祖先である。
メランコリーの患者が「御先祖様に申訳ない」という場合の御先祖様は、このような個人的祖先のだれかれではない。
それはむしろ、・・・超個人的レベルでの先祖のことであり、いわば朝時代的、超世代的な、われわれが自分の存在をそれに負うているような根源としての御先祖様なのである。
われわれの現在の存在が、なんらかの意味で過去から出てきているという、この由来性が「御先祖様」として表現されているのである。」(60~61、68~69)
⇒このくだりは同感です。
いずれにせよ、「メランコリー」が多用されているけれど、前述したような理由で、その言葉は気に留めないことにしましょう。(太田)
(続く)