太田述正コラム#14674(2024.12.31)
<木村敏『人と人との間』を読む(その4)>(2025.3.28公開)

 「われわれの存在の根拠が、「時間的」な観点から過去に求められ、「御先祖様」として言い表されるとするならば、これに対してこれが「空間的」に表現されたものが、「世の中」であり、「世間」<(注3)>である。

 (注3)「阿部謹也・・・は、「世間」とは、日本に古くから存在する関係性を指す表現であり、西欧で言う「社会」とは明確に異なると書いている。
 「そんなことでは世間には通用しない」「渡る世間に鬼はなし」「世間の口に戸は立てられぬ」とは言うが、「社会では〜」と話すことはあまりない。
 そもそも「社会(society)」とは、その前提として「個人(individual)」の存在なくしては成り立たないものだ。「個人」は他者へ “譲り渡すことのできない尊厳をもって” おり、各々の “意思に基づいてその社会のあり方も決まる” 。社会を作る単位を細分化した果てにあるのが、「個人」である。
 しかし、「世間」はそうではない。「個人」によって形作られる「社会」に対して、日本では「個人」の意思の前に「世間」が存在する。それは他から与えられた所与のものであり、なんとなく周りに漂う “空気” のようなものとして、個々人が自然と適応してしまっている枠組みである。・・・
 広義の「社会」はそこになく、あるのは自身と縁ある身近な関係性だけだ。ゆえに・・・、<例えば、>周囲を顧みず列車内で騒ぐ小さな「世間」としての集団・・・は時に排他的・差別的なものにもなるとも例示している。」
https://blog.gururimichi.com/entry/2016/05/13/193610

 私たちは、自分の存在を超個人的な「人と人との間」に負うている。
 これが普通の日常的な意識にとらえられたものが、世の中であり世間である。
 「世間に顔向けができない」ということは「御先祖様に顔向けができない」ということと結局は同じことなのであって、タテのものをヨコに見ただけのものにすぎない。
 いずれの場合にも、真に「顔向けができない」相手は、他者的な先祖や他者的な世間ではなくて、自己の存在の根拠そのものとしての、人と人との間にあるなにかなのである。

⇒このくだりについても、(「注3」で示した阿部謹也ほどは、木村が「世間」概念を矮小化していない点を含め、)同感です。(太田)

 このような世間に対する罪責感を、私はドイツ人の義務に対する罪責感とパラレルなものと考える。・・・
 ドイツ人の・・・<場合、かかる>拘束力の主体は、差当っては道徳律のようなもの、そして究極的には神と考えられた。
 日本人の場合、この拘束力の主体が差当っては人情のようなもの、究極的には「人と人との間」という場所に置かれていることにより、ドイツ的な義務が日本的な義理に変るのだ、と言われた。
 こうして、御先祖様に対する罪、世間に対する罪の意識は、結局のところ、義理が果されないことについての「済まなさ」「申訳なさ」だということになる。
 「人と人」の間にあるなにか、自己を自己たらしめているなにかに対する責務を果しえないことについての負い目の意識、ということになるのである。
 それは、西洋人の神に対する罪、道徳的な罪の意識とまったく同様に、きわめて人格的、宗教的罪の意識である。・・・
 西洋人は、自己の存在の存在論的な負い目を、めいめいが自分の頭上に高くかかげている神と結びつけ、道徳的な罪というようなものを、いわばこの垂直線上でしか考えない。
 これに対して日本人は、自己の存在の存在論的根拠を人と人との間というようなところに見いだしているから、どうしても道義的な罪、義理的な負い目を水平面上で考えるようになる。
 ・・・ドイツ人に<は>皆無であ<る>・・・職場の同僚に対する・・・日本人<の>・・・罪責体験も、いわばこの水平面的な負い目意識の投影なのであろう。」(69~71)

⇒このくだりについては、私は同感できません。
 いつの間にか、木村自身が持ち出していたところの日本の御先祖様に対する「垂直線上」の道徳律の話が引っ込んでしまっているように思いますが、それはともかく、要は、前述したように、日本人の道徳律は、宗教的なものとは本来無縁の人間主義性なる本能に根差す自律的なものであって、日本人は、水平面、垂直線上、の双方、つまりは、時空全般に「存在論的な負い目」を感じているのに対し、西洋人の道徳律は、キリスト教の神に命じられた宗教的な、従って他律的な、ものであるため、垂直線上にのみ「存在論的な負い目」を感じるのです。(太田)

(続く)