太田述正コラム#14708(2025.1.17)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その4)>(2025.4.14公開)

 「・・・永禄10年(1567)<に>・・・美濃国を掌握し<た>・・・信長は・・・「天下布武」という文字を刻んだ印判の使用<を始めた>。
 「天下に武を布(し)く」とは、武力による天下の統一・支配の意思の表明である。
 義昭供奉はそのための手段であった。
 みずからの武をもって天下を平定すると心に誓いつつ、義昭を利用する利も計算済であった。
 私は印文にこめられた信長の意図をそう読む。<(注5)>・・・

 (注5)「「天下とは畿内を意味することがある、布武も武家再興(公家は幕府をそう呼んでいた)の意味だ」とする説が流行<ったことがあるが、>・・・「天下」はやはり「天下」である。これを「畿内」や「京都」の意味で読む必要がない。もし本当に信長がそう主張したいなら、「公方再興」と書けばいいではないか。・・・
 <その上でだが、>大名の印判は、自身の心意気や座右の銘を示すぐらいが普通で、具体的に「こうするぞ」と主張するものとして使われてはいない。・・・
 小田原城で有名な相模北条家の印判「禄寿応穏」は「平和な世の中を約束する言葉」と解釈されることが多い。・・・
 <しかし、>実際には「福禄寿」(道教の神)に因むスピリチュアルな印文の可能性が高いだろう。・・・
 <また、>たとえば、謙信はその意匠に獅子、北条氏康は虎、武田信玄は龍を施していて、このうち信玄の龍を「皇帝になりたい」という意思表示だと読む人はいないだろう。
 これをもって「信玄は日本支配をスローガンにしていた」とは言わないように、信長の「天下布武」もそれぐらいの感覚で選ばれた字面と響きのいい造語程度のものと考えるべきだろう。
 例証として、信長の息子たちは「一剣平天下」「威加海内」の印文を選んで使っている。
 どちらも明らかに旧説の「天下布武」と同じ意味で読むべき印文だ。≪信長の>息子たちが「武力で天下をまとめます!」という印文を使っているんだから、信長の「天下布武」も、文字通り「天下に我が武を行き渡らせる」の意味で読むのが妥当である。」(乃至政彦「信長の「天下布武」はどんな意味? 戦国大名の印判の深読みは危険」より)
https://sengoku-his.com/2687

⇒このくだりに関しては、「「天下」はやはり「天下」である」ことは、乃至も指摘する通りだと思いますが、その点はさておき、やはり、乃至説ではなく、池上説が正しいでしょう。
 1565年の岐阜と天下布武とは2点セットとして解釈されるべきですし、更に言えば、1967年の麒麟の花押と3点セットとして解釈するのが自然だからです。(太田)

 信長は長島といい、越前といい、一揆の抵抗にはなで切り、皆殺しの徹底的な虐殺を行った。
 比叡山の焼き討ちもそうであった。
 武士については、侵攻前に寝返り・出仕を積極的に働きかけ、戦争開始後でも投降を認めるのが通例であったのに対し、一揆や僧らがひとたび抵抗すれば、狂気のように容赦のない弾圧・殺戮をくりひろげた。
 なお強敵であり続ける本願寺・一向一揆へのみせしめとし、抵抗への抑止にしようという意図があったことはもちろんであろうが、それだけではなく、武士(敵方の大名とその家臣も含む)以外の者が武士の支配に抵抗することはあるまじきことであるといった身分意識が存在したのではないだろうか。<(注6)>

 (注6)「織田信長といえば、忘れてはならないのが熱田神宮(愛知県)の「信長塀」。土と石灰を油で練り固め、瓦を厚く積み重ねられて作られた築地塀(ついじべい)のことである。京都三十三間堂の太閤塀などと共に、「日本三大土塀」のうちの1つとして数えられている。
 そもそも、どうして織田信長が熱田神宮に築地塀を奉納したのかというと。永禄3(1560)年5月の「桶狭間の戦い」で、・・・今川義元を破る。誰もが予想しなかった・・・「番狂わせ」が実現した<から>である。
 じつは、この戦いの直前。信長は熱田神宮(愛知県)で戦勝祈願を行っている。そして、願い通りの大勝利のお礼に、熱田神宮へ奉納したという経緯だ。・・・
 信長は、あまり縁起・・・担ぎ・・・にはこだわらないタイプ・・・だから、純粋に「熱田大明神の御加護」を願っていたともいえるのだ。・・・
 加えて、仏教に対しても、わずかながらの信仰が垣間見える。安土城(滋賀県)の築城の際には、菩提寺である臨済宗妙心寺派の「總見寺(そうけんじ)」を移築。それだけではない。軍旗も「南無妙法蓮華経」と書かれたものを使用。繋ぎ合わせれば、禅宗や法華宗への信仰もチラッとだが、うかがい知ることができるのだ。・・・
 焼き討ち<した>・・・比叡山・・・は、たまたま「宗教団体」という側面が強かっただけ<で、>じつは、同盟を結ぶ戦国大名と何ら変わらない・・・一大勢力だと見ることができるのだ。・・・
 <しかも、この相手は、信長による累次の警告にもかかわらず、利敵行為を繰り返した。>
 <また、>戦国大名同士なら、優勢がつく頃に退陣することもしばしば<で、>大将が討ち取られでもすれば、確実に敗走する<のだが>、念仏を唱えながらひたすら前進する一向<宗>・・・門徒らは、鉄砲も恐れない。味方が倒れても、それを超えて迫る勢いであ<って、>いうなれば、戦いの常識が通用しない相手でもあった。
 <つまり、信長側としても、>・・・なりふり構わず戦わなければならない相手だったのである。」(Dyson 尚子「織田信長は本当に「無神論者」だったのか?比叡山を焼き討ち本願寺と戦った男の真実」より)
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/115971/

 信長はそうした意識のもとに武士の支配する世の中を創りあげようと考えていたのではないだろうか。」(18、63)

⇒「信長は、世界でも稀な、(マルクス・アウレリウス・アントニヌスや曹操やレーニンや毛沢東なんぞがその足元にも及ばない)超人的な哲人政治軍事指導者だった」(コラム#12103)、や、「厩戸皇子→日蓮→信長、という系譜が見えてきて、信長もまた、事実上の、しかも、正統派の、日蓮宗信徒でもあったと言えそうだ。」(コラム#14417)、といったことも踏まえれば、このくだりに関しては、池上説は誤りでDyson 尚子説が正しい、ということになるでしょうね。
 この際、改めて信長の「信仰」についてですが、彼は、神道、及び、仏教諸派中の臨済宗と日蓮宗、との、習合的信徒であった、と見てよいのであって、聖徳太子コンセンサスと日蓮主義の正嫡者であった、とみなされるべきでしょう。
 注意すべきは、皇太子であった以上、当然のことながら、厩戸皇子もまた、神道信奉者であったことです。
 2017年・・・当時<の>・・・法隆寺管長<たる>・・・大野玄妙師<が、>・・・「実は、<当初から、>鳥居<が、この、皇子創建の>お寺(法隆寺)の中に何か所も祀<られ>ております」と<指摘している>」
https://religion-news.net/2022/05/18/op787/
ことを、我々は銘記すべきでしょう。(太田)

(続く)