太田述正コラム#14710(2025.1.18)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その5)>(2025.4.15公開)
「信長は越前国のうち8郡を柴田勝家に与えて新たに縄張をした北庄城に置き、大野郡の3分の2を金森長近、3分の1を原彦二郎に与えて大野郡に置いた。
今立郡・南条郡は前田利家・佐々成政・不破光治に与え、府中とその近辺に置いて、勝家に対する目附(監視役)とした。
そして支配方針を盛った越前国掟九ヵ条を定めた。・・・
一国の支配を任せた前波(桂田)<(注7)>の失政から、一向一揆の蜂起を生み、信長の両国支配がひっくり返ったのである。
(注7)前波吉継(まえばよしつぐ。1524~1574年)。「朝倉義景に仕え<ていた>・・・が、元亀3年(1572年)に織田信長と義景が対陣すると、信長の本陣に駆け込んで降伏した。・・・内通した翌年の朝倉攻めでは織田軍の越前案内役を務め、朝倉氏滅亡に一役買った。越前侵攻への功績により、信長から越前の守護代に任命され、名前も信長から一字「長」を貰い受けて桂田長俊と改めた。・・・しかし、・・・まもなく失明。さらに長俊が守護代になったことに反発した富田長繁が対立姿勢を示し、天正2年(1574年)についに長繁は土一揆を蜂起させ長俊が住す一乗谷に進発。1月19日に長俊は富田長繁率いる一揆勢によって衆寡敵せず殺害された。なお、長俊の母・妻・嫡男も逃亡しようと試みたが、翌日に捕縛され殺害されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%B3%A2%E5%90%89%E7%B6%99
富田長繁(とだ/とんだ ながしげ。1551~1574年)。「前波吉継に続いて・・・織田軍の陣に走り込み寝返った。・・・朝倉氏が滅ぼされると、桂田長俊(前波吉継改め)が越前守護代、長繁は越前の府中領主にそれぞれ任ぜられ、以後は同地に住した。同年9月から10月にかけての第二次長島攻めに従軍して戦功を挙げた。・・・
天正2年(1574年)1月18日に長繁は・・・大規模な土一揆を引き起こし・・・越前を一時的に支配下に収めた・・・が、長繁が織田信長の前で償って越前守護と認める旨の朱印を発行してもらい、代わりに岐阜に弟を人質に差し出そうとしているという風聞が立ち、この事で一揆衆は長繁と手を切り、自らの大将に加賀国から一向宗の七里頼周を呼び担ぎ上げた。こうして富田長繁率いる土一揆は七里頼周率いる一向一揆に進展していった。・・・
無理な戦を仕掛ける長繁に不満を抱く者が出始め、合戦の最中に味方・・・に裏切られ、背後から鉄砲で射殺され首を取られた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%B9%81
七里頼周(しちりよりちか。1517~1576?年)。「もとは本願寺の青侍だったが、顕如に見込まれて坊官となり、加賀一向一揆の指導を命じられた。織田信長との石山合戦が始まると、顕如の命で加賀の一向門徒を指導し、織田軍とたびたび争う。このことから一向門徒から「加州大将」と呼ばれた。・・・
<越前の>一揆衆<が>長繁を大将の座から降ろ<すと>、一揆衆の本願寺門徒の相当数の推薦があった頼周が指導者となった。・・・この後、越前一国は本願寺から派遣されてきた下間頼照<(しもつまらいしょう)>の支配を受け、頼周も彼の指揮下に入った。・・・信長は、・・・天正3年(1575年)8月、大軍を越前に送り込んだ。門徒に人望が無かった頼照や頼周は全く統率が取れずに大敗北を喫した。頼照が逃亡先で殺害された一方、頼周は加賀まで逃げ切<り、やがて、>・・・上杉謙信の指揮下<に入った>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E9%87%8C%E9%A0%BC%E5%91%A8
そのようなことが二度とおこらないよう、国の仕置を確実に申しつける必要があった。・・・」(63、65)」
⇒越前国の二回目の統治にあたって、信長が構築したところの、同国統治体制から見えてくるのは、信長による、国司制や守護制はもとより、石高制でもない、統治体制の模索ですが、果たして、亡くなるまでの間に、信長が新しい統治体制を頭に描くに至っていて、それを現実化し始めていたのか、を、解明できればと思います。
それはともかくとして、蓮如の浄土真宗たる一向宗の、当時の、権力亡者的戦闘集団化、という堕落ぶりには、目を顰めさせるものがあります。(太田)
(続く)