太田述正コラム#14718(2025.1.22)
<池上裕子『織豊政権と江戸幕府』を読む(その9)>(2025.4.19公開)

 「・・・信長の敏速な行動を支えたのは、馬廻衆や小姓衆であった。
 彼らはつねに信長の近辺におり、また城下町居住を義務づけられていた。
 小姓衆は平時も戦時も信長の身辺にいて身の回りの世話をした、主に年少者・若者から成る。
 とくに有名なのは森蘭丸<(注14)>や万見仙千代<(注15)>である<。>・・・

 (注14)森成利(なりとし。1565~1582年)。「織田信長の家臣・森可成の三男として尾張葉栗郡蓮台に生まれる。・・・
 天正5年(1577年)5月、織田信長に小姓として弟らと共に召し抱えられる・・・。・・・使者としての活躍も見られ・・・る。また、母の妙向尼は織田信長と石山本願寺との争い(石山合戦)の和睦成立に奔走した際に、成利を通じて情報を得て信長と直談判をしたとされる。なお信長は当時、本願寺との和睦に際して「金山城下に浄土真宗の寺院を建立、息子(妙向尼の子)の一人を出家」させることを条件に和睦を提示した。
 天正10年(1582年)、甲斐武田氏滅亡後は甲州征伐に貢献したとして信濃川中島に領地替えとなった兄の長可に替わって美濃兼山及び米田島を与えられた・・・。また美濃岩村城主にもなった。・・・5万石・・・。ただし成利は岩村城には在城せず、長可の家老の各務元正が成利に付けられ、城代を務めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E6%88%90%E5%88%A9 
 (注15)万見重元(まんみしげもと。?~1579年)。通称は仙千代<。>・・・
 織田信長の小姓であるが、その出仕の時期は不明。信長や信忠に近侍し、他の大名や家臣との取次や、奉行として政務を執行し、戦場では主に検使の役を務めた代表的な側近である。・・・
 1578年<に、>・・・荒木村重<の>・・・有岡城への一斉攻撃の命令が下り、仙千代は堀秀政・菅屋長頼<(後出)>とともに鉄砲隊を指揮して、石垣近くまで迫ったが、この戦闘で討ち死にした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%A6%8B%E9%87%8D%E5%85%83

 彼ら小姓衆は、他に奏者、使者、奉行など重要な役割も担っていた。
 小姓がある年齢に達すると馬廻衆になったとみられる。
 馬廻の数は不明だが。小姓出身以外に地侍クラスやそれよりやや上位の武士、国人クラスの二男、三男などが出身母体とみられている。
 ・・・前田利家<(注16)>などが馬廻の代表例であろう。・・・

 (注16)(1539~1599年)。「尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春(利昌とも)の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、・・・永禄初年ごろに新設された赤と黒の母衣衆(・・・信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の赤母衣衆の筆頭に抜擢され、多くの与力を添えられた上に、100貫の加増を受ける。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
 「母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。・・・
 武士の組織化が進んだ戦国時代には、母衣は赤や黄など目立つ色で着色されており、敵味方からも識別しやすい母衣は大名の精鋭の武士や、本陣と前線部隊の間を行き来する使番に着用が許される名誉の軍装として使われることがあり、それら使番の集団を「母衣衆(幌衆)」と称した。・・・
 織田信長の軍には、馬廻から選抜された信長直属の使番である「黒母衣衆(くろほろしゅう)」と「赤母衣衆(あかほろしゅう)」があり、これはそれぞれ黒と赤に染め分けた母衣を背負わせたものであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%8D%E8%A1%A3

⇒戦国大名で最初に直轄の近衛部隊的なものを設置したのも信長だと言えそうですが、充分調べていないので断定は避けます。
 例えば、武田信玄は、弟の信繁存命中は、信繁が、「武田領国内において城番として領域支配を行っていることが確認されず、基本的には甲府に在住して武田家の外交に参与し、合戦の際には信玄名代として軍事を指揮し、先衆を統制する立場で出陣していたと考えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81
ところ、ここから、信玄は部隊を直轄していなかったことが見て取れますし、信玄の好敵手の上杉謙信は、最後まで、その反対に、全軍を自らが直接指揮したよう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
です。(太田)

(続く)