太田述正コラム#3351(2009.6.22)
<イラン燃ゆ(その4)>(2009.7.20公開)
<参考:今次選挙におけるインチキ>
以下の二つの分析を読むと、アフムディネジャドに有利なインチキが行われたことはほぼ間違いない、という印象を持ちます。
数理的・心理学的分析
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/20/AR2009062000004_pf.html
(6月21日アクセス)
前回の大統領選挙の時との選挙区ごとの投票率、及び「保守派」、「変革派」の投票数の分析
http://www.guardian.co.uk/commentisfree/2009/jun/22/iran-election-voters-numbers
(6月22日アクセス)
4 イランの現代史と今後の展開への予感
「・・・テヘランでの19日の祈祷の際、アヤトラ・アリ・ハメネイは英国をイランの様々な敵の中の「最大の悪」とこきおろしたが、これは、英国によるイランの内政への帝国的介入の長い歴史という遺産なる、イラン人の心に深く鋭い共鳴を呼び起こす弦を叩いたものだ。
1979年のイスラム革命以来、イランの指導層にとって余りにもしばしばつきまとった「大悪魔」たる米国ではなく英国を名指したことは、彼が指導している政府がこの30年間で最大の危機に直面している時にあたって。イランの最高指導者として、何とも奇妙な選択をしたものだと映ったもしれない。・・・
英国に対する敵意は労働者階級及び農業に従事しているイラン人・・アフマディネジャドの政治的基盤・・の間で最も強い。・・・
英国は、イランを1941年に侵略し、ドイツ・シンパの疑いのかけられたイランの統治者であるレザ・シャー・パーレヴィ(Reza Shah Pahlavi)を亡命に追いやった。
1953年には、英国の諜報諸機関が米CIAと一緒に、ナショナリストの首相であったモハメッド・モサデグ(Mohammed Mossadegh)を打ち倒した。・・・
もっと最近では、英国のイランとの関係は、作家のサルマン・ラシュディ(Salman Rushdie)をめぐる対決<(コラム#1069)>によって緊張した。・・・
しかし、恐らくイランの側にとって最大の棘となっていたのは英BBCのペルシャ語放送だろう。
それはラジオ放送として1940年代初めに始まり、最近ではTV放送も行われている。
何百万人ものイラン人がイランに関するBBCの報道に頼るようになっている。
・・・それは、彼等が、それを自分達の国で起こっていることに関する「最も信頼に足る」説明であるとみなしているからだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/06/20/world/middleeast/20britain.html?ref=world&pagewanted=print
(6月20日アクセス)
「・・・この1世紀の間、イラン人達は57カ国からなるイスラム諸国群の中の先達であり続けてきた。
1905年から1911年にかけての憲法革命の間、知識階級とバザールの商人達と僧侶達の強力な連合は、カジャール(Qajar)朝に憲法とイラン最初の議会を受け入れさせた。
1953年に民主的に選出された、4つの政党からなるところの、首相のモハメッド・モサデグ率いる国民戦線連立政権は、立憲民主主義を推進し、最後のパーレヴィ皇帝をローマに亡命させた。
しかし、米英の諜報機関はクーデターをしくみ、彼をクジャクの王座へと復帰させた。
そして1979年には、再度、バザールの証人達、僧侶達と知識階級の連合が大衆を街頭に蝟集させ、約2,500年にわたって続いた王朝的支配を終わらせた。・・・」
http://www.latimes.com/news/opinion/commentary/la-oe-wright21-2009jun21,0,3504741,print.story
(6月22日アクセス)
「・・・<イランの若い女性が銃弾で胸を撃ち抜かれた映像>
http://www.youtube.com/watch?v=CfrfEtW2aT4
が世界中に衝撃を与えている・・・
イスラム教シーア派は、死者を死後3日目、7日目、そして40日目に悼む。・・・
先週の18日の一番大きなデモは、反対派の指導者であるミル・ホセイン・ムサヴィによって、抗議者達が殺されてから3日目に彼等の死を悼むために呼びかけられたものだ。・・・
<だから、この若い女性の死は、そして今後生じるであろう新たな死は、その都度、悼みのうねりを何度も呼び起こして行くことだろう。>」
http://www.time.com/time/world/article/0,8599,1906049,00.html
次は、ムサヴィ・シンパの匿名イラン人によるコラムからです。
「・・・<それまで劣勢にあったというのに、>選挙<の直前のある調査では、>ムサヴィ氏は、約44%の回答者によって支持され、これに対してアフマディネジャド氏は約38%という結果も出ていた。・・・
このような大きな変化は、以前にも起こったことがある<ので、ありえないことではない>。
1997年の選挙の前、体制派の候補者であったアリ・アクバル・ナテグ-ヌリ(Ali Akbar Nategh-Nouri)は、各種調査において競争相手達を打ち負かしていた。
ところが、投票の1週間前、潮が変化し、改革者たるモハマッド・ハタミ(Mohammad Khatami)を権力の座につけたのだ。
投票者選好におけるかかる流動性の理由は単純だ。
イランには、一定の数の予想可能な票を獲得できるような、真の政党が存在しないのだ。
つまり、選挙は人格をめぐる政治によって決定づけられるということであり、イラン人達は浮動投票者達なのだ。
だから、ムサヴィ氏は、国営ニュース・メディアへのアクセスが得られないことで妨げられ、しかも選挙運動に2ヶ月間しか与えられなかったため、先行するアフメディネジャド氏を追い上げることができたのは選挙戦の終盤、すなわち、彼が地方の諸都市を訪問するようになり、かつ<イラン史上初めて大統領候補同士でのTV>討論が放送されてからであったのだ。・・・」
http://www.nytimes.com/2009/06/19/opinion/19shane.html?_r=1&pagewanted=print
(6月20日アクセス)
権力を握るハメネイ=アフマディナジャド一派は、今次大統領選挙でインチキを行い、かつ、その後、治安部隊の中の一部はねあがり分子による、(元大統領で現在も一定の権力を持っている)ラフサンジャニ=(ハメネイとホメイニ後の最高指導者の座を争った)モンタゼリ=(前大統領の)ハタミ=(現大統領候補で元首相の)ムサヴィ一派が動員した人々の殺害を防止できなかったため、権力の座から滑り落ちる可能性が出てきたと言えるでしょう。
もっとも、この抗争の予期せぬ結果、イランの体制そのものが崩壊し、真の民主主義がイランで実現する、という希望的観測が飛び交っているものの、私はこれには懐疑的です。
(続く)
イラン燃ゆ(その4)
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