太田述正コラム#3559(2009.10.2)
<英陸軍の近現代史(その1)>(2010.2.18公開)
1 始めに
騎兵士官についての歴史小説をこれまでに10篇上梓してきた英国のアラン・マリンソン(Allan Mallinson)が ‘The Making of the British Army: From the English Civil War to the War on Terror’ を出版しました。
例によって、この本の書評を使って、どういうことを著者が書いているのか、具体的には、常備軍としての英陸軍の歴史はいかなるものであったか、に迫ろうと思います。
A:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/bookreviews/6202553/The-Making-of-the-British-Army-From-the-English-Civil-War-to-the-War-on-Terror-by-Allan-Mallinson-review.html
B:http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/arts_and_entertainment/books/book_reviews/article6829013.ece?print=yes&randnum=1254442450984
C:http://www.express.co.uk/posts/view/129867
2 英常備陸軍史
(1)総論
「これは、<英陸軍が、17世紀中頃>以降、1939~45年までの300年にわたって英国が戦ったあらゆる戦争の後、徴兵制を導入し、平時において英国が経験したことのない最大の兵員数を維持するに至った物語である。・・・」(A)
「・・・この本で何度も繰り返し現れる主題は、常に大きな紛争の後の年月において英陸軍が悩まされたところの、装備に係る放置と窮乏だ。・・・」(B)
「・・・第一次世界大戦の時に初めて英陸軍が使用した巨大な装甲車両が「タンク」と呼ばれたのは、マリンソンが明らかにしたところによれば、それらが初めてフランスに向けて船で運ばれた時、水をいれるタンクというふれこみにされたからだ。・・・」(A)
(2)英常備陸軍の誕生
「ローマ時代からイギリス内戦に至るまで、イギリスもスコットランドも、どちらも常備陸軍を持っていなかった。
<イギリス内戦>当時の王党派の陸軍も議会派の陸軍も、本質的には部分的に訓練を受けた地域(county)の各民兵を中核として、その周りに形成された農民の陸軍だった。・・・」(C)
「・・・17世紀初頭のイギリスには、常備陸軍を持つことに反対する傾向が見られた。
これは、それがイギリスにおける政治秩序(political settlement)を転覆する可能性があるからだけではなかった。
陸軍は高価でもあったからだ。
だから、<クロムウエルの>イギリス共和国(Commonwealth)の元兵士で、1660年にチャールス2世の王政復古をお膳立てしたモンク(Monck)将軍<(コラム#3549)>は、陸軍のおかげでこの仕事をやり遂げたというのに、その後、陸軍を見せかけだけの存在へと後退させてしまった。・・・」(A)
「・・・<それはさておき、>チャールス2世と彼の上級将軍であったジョージ・モンクは、マリンソンが呼ぶところの、「一種の国内陸軍(Territorial Army)のはしり(nascent)」の基礎をつくった。
他方、<オランダから招請されてやってきた>ウィリアム3世は、彼自身が経験豊富な戦士だったが、欧州大陸で戦う陸軍を建設した。
その結果、<ウィリアムとメアリーによる共同統治の後の>アン女王(Anne)の治世中に<現在のオランダとベルギーに相当する>低地諸国(Low Countries)で50,000人の英国兵を擁するに至った。・・・」(C)
「・・・国の中には、陸軍が国家の原型を形成したものがある。
ヴォルテールは、プロイセンは、国がそれにくっついている陸軍であると喝破した。
しかしイギリスでは、イギリス内戦と少将達の抑圧的な規則<といういやな経験>を受け、自分達の軍隊に対する懐疑的な見解が醸成されるに至った。・・・
<しかし、>常備陸軍という観念に対する反対論は巧みに回避された。
また、軍隊が王室の一部門なのかそれとも政府の下の存在なのかという問題も同様、巧みに回避された。
モンクの死と名誉革命の後、まことにもってイギリスらしい妥協が成立した。
議会は、<毎年行われる軍事>予算<の採決>と毎年行われる暴動法(Mutiny Act)への投票(注1)によって拒否権を維持する一方で、君主は<軍人の>任命権のコントロールを維持したのだ。
(注1)議会が1627年に権利の請願を採択することによって、イギリス内の文民のみならず軍人も平時においては軍法会議や軍法の適用を受けなくなった。名誉革命でウィリアム3世がジェームス2世に取って代わったが、イギリスに駐屯するスコットランド部隊の中には、ジェームス2世を引き続き忠誠の対象とし、ウィリアムによるオランダ派遣命令に服従しないものが出てきた。そこで、このような不服従行為を軍法会議で罰することができるようにするために、議会は1689年に一年間有効の暴動法を採択した。(太田)
http://en.wikipedia.org/wiki/Mutiny_Acts
しかし、陸軍の組織の性格における主要な要素は、連隊制度だった。
アラン・マリンソンは、それを「天才の偶発的行為」と叙述する。
それは、戦時における急速な拡大とその後の野蛮なまでの削減という期間と期間を通じ、<英陸軍に>柔軟性と継続性を提供した。・・・」(B)
「・・・<スペイン継承戦争(1701~14年)における>1704年のフランスに対するブレナム(Blenheim)における勝利、及び1715年のジェームス党(Jacobite)の叛徒達に対する勝利の後、その後何度も繰り返され、陸軍を爾後3世紀にわたって悩ますこととなる、最初の削減期がやってきた(注2)。
(注2)戦力不足のため、1745年における、2度目のジェームス党の叛徒達の蜂起に際し、あわやハノーバー朝が倒されそうになってしまう。(コラム#181、459、1696)(太田)
1760年代における7年戦争に際し、英陸軍は再び拡大され、最終的には北米、欧州、及びインドの三つの大陸において、同陸軍はすべて勝利を収めることになる。・・・」(C)
「・・・18世紀の間と19世紀の大部分の間、員数減と司令部幕僚の解散が繰り返されたが、これにより、<英陸軍は、>その次の戦争の初期において、その都度重い代償を支払うことになった。
7年戦争における偉大なる諸成功の後、20年も経たないうちに起こった米独立戦争の間、<英陸軍は、またもや戦力不足によって、>大災厄に見舞われることになった。
これに対して、英海軍は、さして悩まされることはなかった。
というのも、英海軍は<英陸軍と違って>、英国に対する侵攻を防ぐことを保障していた上に、英国の富が拠っていたところの、貿易路を守っていたからだ(注3)。・・・」(B)
(注3)だからこそ、英海軍は王立海軍(Royal Navy)なのに、英陸軍は単なる英陸軍(British Army)なのだ。(太田)
(続く)
英陸軍の近現代史(その1)
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