太田述正コラム#4272(2010.9.23)
<ピゴット少将かく語りき(その2)>(2011.1.10公開)
「1927年(昭和2年)3月、南京に暴動が起り、日・英・米三国の領事館は国府軍・・・によって暴行を受けた。・・・
<この時、>日本が協力を拒否したこと<は>・・・重大な誤りだった。・・・
それより数ヶ月前<当時、>・・・日本の参謀本部が仮想敵国としていたのは、ソ連と中国の二国だけだった–ソ連は、すぐそばの大陸において利害が衝突し、しかも、日本とは根本的に相反する政治組織をもつ国として、また中国は、混沌として、嫉妬深く、非友好的で、当てにならない国として。」(298~299頁)
「<この時、>イギリス政府は、もし日本が同数の兵力を派遣するなら、イギリスの1個旅団を日本の師団長の指揮下に置くことを申し出たのである。
日本の<駐英>陸軍武官二宮将軍は、<英>陸軍省のハリソン極東課長の部屋に、日本が名目だけの兵力さえ派遣できない旨を告げに来たとき、ほんとうに泣いたとハリソンがいった。日本は、南京政府にあらゆる機会を与えたがっていたこと、もし実際に危機が到来したら、日本は急速に派兵できる(1900年(明治33年)の義和団事変当時のように)というのが、一般に信じられていた派兵拒否の理由だった。したがって、日本は、危機を未然に防止しようというイギリスの勧誘が、実際的な形式による旧同盟精神の復活を意味したにもかかわらず、これを断ったのである。
しかし、もう一つ拒否の理由があった。それは同盟を廃棄したことにたいする憤懣の気持ちが、まだくすぶっていたことである。後年、両国関係が次第に悪化していったとき、多くの日本人は、日本が1926年(昭和元年)–27年(昭和2年)に、イギリスと行動を共にしなかったことを、公然とくやんでいた。首相近衛公自身も、1940年(昭和15年)8月24日附の『ステイティスト』の特別日本附録に寄せた声明の中で、次のように述べている。
…不幸にして、南京事件(1927年・昭和2年)の前夜に行われたイギリスからの日英協力の提案は、日本によって拒否された…
もし、日本がイギリスの提案を受諾していたなら、極東ばかりでなく世界の歴史は変っていたろう。」(300~301頁)
→日英同盟が米国の介入で廃棄されていたことが、戦略的利害・・ソ連の封じ込めと中国の安定化・・の一致にもかかわらず、ボタンの掛け違いを引き起こしたというわけです。(太田)
「<1931年に>満州の空にとどろいた遠雷<(=満州事変)は、>・・・テンパーレーが自著の標題に用いた表現を借りると、ヨーロッパの井戸端会議所–すなわち国際連盟本部にまっこうからのしかかってきた・・・。
もし当時、日英同盟条約が厳存していたならば、日英間の見解の相違は調整されたであろう。しかし、当時として、もはやそうしたことは望み得べくもなく、日本の世論はその全部でないにしても、イギリスこそ国際連盟を反日にみちびいた元凶であるとみなしていた。・・・
大体、イギリス人は極東の事態について、これまであまり強い関心を示したことはないのだが、極東の事態の発展にはたしかに狼狽した。
イギリスの権益というよりも、むしろ国際連盟に煽られたかたちで、日本を非難攻撃する人々もいた。日本の新聞や国民は、一部の狂信的な連中の発するかん高い罵詈讒謗の叫びを、穏健なイギリス国民の本音だと勘違いした。・・・
しかし当時としては、日本がイギリスにたいして、そう感じるのももっともな点があった。たとえば、1932年(昭和7年)ロンドン・タイムズに掲載された、セシル卿その他の署名つきの書簡は、連盟がアメリカと共同して、日本が中国全体を武力征覇するのを防止するために日本にたいし外交的、経済的圧力を加えることを要求した。・・・」(327~328頁)
「1932年(昭和7年)8月22日、・・・ウィリアム・ロバートソン元帥・・<の日英>同盟にかんする・・・見解<を聞く機会があった。元帥いわく、>・・・「わたしは常に現実に直面する覚悟を忘れなかった。イギリス帝国の百年の大計をたてるに当っては、なにより根本的な要素は日本との友好であると感じた」・・・
<また、>グレイ卿<(Edward Grey, 1st Viscount Grey of Fallodon。1862~1933年。英外相:1905~16年
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_Grey,_1st_Viscount_Grey_of_Fallodon (太田)
)に関してだが、>・・6年後<の1911年に>、日英同盟の第2回目の更新が考慮されていたとき、グレイは・・・カナダ総督だった従兄弟のグレイ伯爵に書翰を送り、
もしわれわれが日英同盟を破棄すれば、われわれはもはや有事の際、日本海軍の援助に頼ることはできない。同時にわれわれは、日本がわれわれに敵対するような盟約に加入する可能性にたいし、準備をせざるを得ない。
と述べ、同書翰は次の文章で結んである。
わたくしは日本がアメリカに面する太平洋水域で、武力に訴える危険は万々ないものと信じている。かかる行動は日本の国策に反し、また日本の実力では不可能である。しかしながら、われわれは満州およびその他の日本が関心を寄せている地域で、検事のような態度で日本に対することには同意しない。」(337~338頁)
→英国の軍人は愚直に日本を信じていたけれど、英国の政治家は必ずしもそうではなかった、そして自己実現的な不吉なことを言う者がいた、ということですね。(太田)
「日本が国際連盟を脱退した後、日英両国間の緊張は眼に見えて緩和された。いわゆる警世家や狂信的な一部のイギリス人は沈黙し、1934年(昭和9年)から翌年にかけて、両国の関係は相当に改善された。これには幾多の理由があったが、その主なものは、イギリスの民衆が深い関心を抱き得ない、そして抱こうともしない事態をめぐって、両国間に真の衝突がかつて一度も起ったことがないという日英共通の安心感であった。「満州問題は実際にわれわれイギリス人と関係があるか」という質問にたいし、一般民衆は「ない」と答えた。」(338~339頁)
→ピゴットは気付かなかったかあるいは気付かないふりをしていたのでしょうが、これは、英国の力の衰えに伴い、英領香港や中国における英国の利権の存在にもかかわらず、英国民が東アジアのことまで関心を持つ余裕がなくなってしまったということだと私は思います。(太田)
「<1936年、>奉天・・市にはイギリス総領事館があったが、といってイギリス政府は満州国を承認していたわけではなかった。同時に、満州国をつくり上げた日本が、日本を代表する総領事館をおいていた。よいことには、日英総領事はきわめて仲がよかった。」(391頁)
「天津には陸軍大学の学友<の>・・・准将が、イギリス駐屯軍の司令官として駐在していた。ここでは、イギリス軍と日本軍隊との間に、若干の社交的往来があることを知って満足した。」(397頁)
→このように、イギリスがなまじ支那(満州を含む)に利権を有していたことが、後述するように、日英関係を悪化させる原因になっていきます。(太田)
「<1938年、>中国駐在のあるアメリカの官吏が、休暇をとって・・・生まれて初めて・・・日本を訪問した。かれは・・・「わたしは在華日本人から逃れ去るために日本へやってきた。日本にいる日本人と、中国にいる日本人とは相違がある」と表した。この表現は疑うべからざる一部の真理を含んでいる。ほとんどすべての外国人が、在華日本人には手を焼いていた。日本政府が日本人の中国入国にかんする規則を一層厳重にし、さらに一部の「望ましからざる」人物の送還さえ考慮していたことも、その後さるたしかな筋から耳にした。」(398頁)
→もっとも同じことが在華英国人についても言えそうです(後述)。日英双方とも、あぶれ者的な連中が、地の果て的な混乱、混沌のただ中にあった当時の中国に流れてきていた、ということでしょうか。(太田)
「<英>国王エドワード8世の退位<に伴う>・・・1937年(昭和12年)5月12日の・・・ジョージ6世・・・国王戴冠式・・・が日英国交の頂点であった。その後、ひきつづき両国の関係は歩一歩崩れていった。7月早々、北京附近で夜間演習実施中の日本部隊と中国部隊の間に起った衝突は、いつ果てるとも知れない戦乱をひき起した。・・・「日華事変」<だ。>・・・日本・・・のスポークスマンは・・・ソ連との衝突を想定して、日本がその対ソ構想と計画に全力を集中しているとき、その本すじから離れて、わき道にその勢力を注ぐことは考えられぬことではないかと・・・論じた。1936年(昭和11年)および1937年(昭和12年)のはじめ、日本部隊に配属されていたイギリス将校達の証言では、日本将校達の食後の放談はもっぱら対ソ戦争の予想に限られ、対華戦争にはほとんど触れなかった事実が確認されている。
日華事変・・・が日英国交に及ぼした影響はおしなべて悪かった。イギリスの駐華大使ヒュー・ナッチブル・ヒューゲッセンが上海近郊の危険地帯を自動車で走っていたとき、日本<海>軍の飛行機からの機銃掃射で負傷した
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/390.html (太田)
ため、事情は一層悪化した。駐日新大使サー・ロバート・クレイギーは9月3日着任した。ヒューゲッセン問題が首尾よく解決したのは、主としてクレイギー大使の慎重かつ老練な処置と、かれと日本の軍部筋、とくに海軍次官山本五十六提督との友誼によるものであった。」(405、406、409頁)
→帝国陸軍がもっぱらソ連のことを考えていたことがここでも良く分かりますね。
それにしても、当時、英陸軍将校が中国の日本軍部隊に隊付で大勢いたとは今となっては不思議な気がします。
なお、ヒューゲッセンの話、さぞや当時は大事件だったのでしょうね。(太田)
(続く)
ピゴット少将かく語りき(その2)
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