太田述正コラム#4306(2010.10.10)
<ジョージ・ワシントン(その2)>(2011.1.24公開)
(2)ダメ人間だったが運は良かったワシントン
「・・・ワシントンの人格と彼の母親の彼に対する扱いとの関係ははっきりしている。
彼女は、冷たく、きわめて厳しく、かつ性急に判断を下しがちな人物であり、彼は常に彼女を満足させることはできなかった。
彼女は、彼が何をなしとげても、それを褒めることはなかった。
彼女は、節約家で、要求水準が高く、やかましやで粗探しをする人物だった。
<その結果、>彼は、成長して批判を過度に気にする人物となり、生涯、人から認められることを求め続けた。
しかも、彼は常に怒りを抑制するのに四苦八苦し続けた。・・・」(F)
「・・・ワシントンの人格と本能を最も良く叙述する形容詞は、まことに皮肉なことに「イギリス人」だ。
彼は、色が白く簡単に日に焼けた。
彼は、自分の衣類その他大部分の商品をロンドンの商人達から購入した。
彼は、イエス・キリストの神性を肯定したことはついになかったが、自分の地域の英国教会の諸教会を積極的に支援した。
彼は、マウント・ヴァーノン(Mount Vernon)・・一人のイギリス人提督の名前をとったものだ・・<の自分の家>を古典的なイギリス的建築諸原理に従って再建した。
彼は、冷淡(phlegmatic)であって、馴れ馴れしくされることを嫌った。
彼は、ヴァレー・フォージ(Valley Forge)<(注1)>の暗き日々に、何と<イギリスの「国技」である>クリケットをした。
(注1)「独立戦争中の1777年から1778年にかけての冬、大陸軍が宿営地としたペンシルベニア州にある場所」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%B8 (太田)
チャーナウは、<そんな>ワシントンが英国と袂を分かったのは、英国当局がワシントンに英正規軍の軍人資格を与えるのを愚かにも拒否したためだという。
チャーナウ氏は、「彼の母国への敵意は、<母国への>愛が阻害されたためだ」と記す。
(彼は、それには貪欲さえからんでいたのではないかと示唆する。というのは、英国は、1770年代央においてワシントンが儲けていたところの、極めて危ういオハイオでの土地投機を止めさせようとしていたからだ。)・・・
<独立戦争において、ワシントンは何度も敗北したが、>次にワシントンが敗北したところの、ブランディーワイン(Brandywine)とジャーマンタウン(Germantown)<の戦い>では、米植民地人150人が殺され、520人が負傷し、400人が捕虜になったが、これに対して英軍側の損害は、70人の死亡、450人の負傷、15人の捕虜<だけ>だった。
しかし、ワシントンは、どちらの戦いについても、大陸会議(Congress)に対して<自分達が>勝利に近づいているかのように報告することによって、彼の栄誉を称える勲章を手にした。
<また、>マンモス・コート・ハウス(Monmouth Court House)の戦いは、戦死者の数で言えば、せいぜい引き分けといったところだったし、英軍はその夜、追撃されることなく撤退を行うことができた。
その次に行われた、ワシントンの最後の戦いは、ヨークタウン(Yorktown)におけるものだ。
彼は、そこに、ニューヨークを再奪取する誤った試みの後・・彼は、後に、そうしたのは敵をあざむくためだったと主張したが、チャーナウ氏はそれを「ウソ」であると断じている・・・、しかも、<フランスの>ド・グラッス(de Grasse)提督の28隻の戦列艦(ships-of-the-line)<注2)> 及びフランスの歩兵並びに砲兵が、半島先端に<英軍の>コーンウォリス(Cornwallis)率いる9000人もの英陸軍を封じ込めてからはるか後にそこに到着したのだ。
(注2)欧米で17世紀から19世紀中頃までの間に建造された戦艦。
http://en.wikipedia.org/wiki/Ship_of_the_line (太田)
チャーナウ氏は、「ヨークタウンでの勝利は、海上での優位によって支援されたフランス軍の巧みな包囲によるものだ」と記す。
だから、コーンウォリスが、1781年10月19日に降伏した時、自分の剣がワシントンにではなく、フランス軍に渡されるように命じたのは少しも驚くべきことではない。
一方、ワシントンは、捕虜になった王党派<(=英軍側で戦った植民地人達(太田)>がニューヨークに船で送り返されることは認めたが、再捕獲された奴隷達・・その中には、彼自身が所有していた300人の奴隷のうちの2人が含まれていた・・は、それぞれのプランテーションに送り返された。・・・」(B)
「・・・考えられないほどのフランスによる援助なかりせば、米国の歴史は異なっていたかもしれない。・・・」(E)
「・・・ワシントンは、頭の回転の速い方でも飲み込みの早い方でもなく、自発性の才を欠き、臨機応変にうまい方法を考え出すことが不得手だった」と彼は記す。
彼は、せいぜい、「独創性というよりは鋭い判断力」を持っていただけだと。・・・」(B)
「・・・ワシントンは余り教育を受けていなかった。
彼は哲学者ではなかった。
そして、「立派な(sterling)機知の時代であったというのに、ワシントンがユーモアで知られたということは全くなかった」と。・・・」(A)
「・・・<しかし、ワシントンの>同時代人達は、彼に深いうらみをもっていたライバル達でさえ、彼が神の摂理によって、あるいは単に運によって嘉されているように見えたという見解だった。
さもなくば、かくも多数の弾丸が彼の周りを飛び交ったというのに、どうしてただの一つも彼の身体にあたらなかったのかを説明することができないし、<彼の蒙った>フレンチ・インディアン戦争と独立戦争で破滅的な軍事的大災厄の連鎖の中から、彼の評判が地に堕ちるどころか、むしろ評判が高まって立ち現れたことだって説明できない、というわけだ。・・・」(E)
(続く)
ジョージ・ワシントン(その2)
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