太田述正コラム#4312(2010.10.13)
<メアリー・チューダー(その1)>(2011.1.28公開)
1 始めに
 映画評論でさんざんエリザベス1世の話をしたばかりですが、エリザベスの物語の前座を務める悪役たる異母姉と相場が決まっている、メアリー・チューダーのことが気になってきませんか。
 時あたかも、アンナ・ホワイトロック(Anna Whitelock)が ‘Mary Tudor: Princess, Bastard, Queen’ が、昨年英国で(B)、そして今年米国で出版され、書評がいくつか揃ってきたので、それら等に拠って、メアリーについて考えて見ましょう。
A:http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2010/10/01/AR2010100103878_pf.html
(この本と他の2冊の本の書評。10月4日アクセス)
B:http://januarymagazine.blogspot.com/2010/09/biography-mary-tudor-princess-bastard.html
(この本の書評。10月12日アクセス。以下同じ)
C:http://www.lunch.com/Reviews/d/anna_whitelock_mary_tudor_princess_bastard_queen-1623155.html
D:http://www.epinions.com/review/Anna_Whitelock_Mary_Tudor_Princess_Bastard_Queen_epi/content_525727403652
E:http://www.telegraph.co.uk/culture/books/5504442/Mary-Tudor-Englands-First-Queen-by-Anna-Whitelock-and-Fires-of-Faith-Catholic-England-under-Mary-Tudor-by-Eamon-Duffy-review.html
(この本ともう一つの本の書評)
F:http://www.huffingtonpost.com/anna-whitelock/theres-something-about-ma_2_b_705296.html
(著者による解説)
 なお、ホワイトロックは、2004年にケンブリッジから歴史学で博士号を取得している女性です。(B)
2 メアリー・チューダーとは何者だったのか
 (1)通説的メアリー観
 エリザベス期のプロパガンダと、ケート・ブランシェット主演の映画『エリザベス』やヘレナ・ボンナム・カーター(Helena Bonham Carter)主演の映画『レディー・ジェーン<・グレイ>』<(1986年の英国映画
http://en.wikipedia.org/wiki/Lady_Jane_(film) (太田)
)>といった、長年にわたる無数の物語において繰り返されてきたこと<が人々の頭に入ってしまっている。>・・・」(A)、
 「・・・多くの人々はメアリーについて、血腥いメアリー(Bloody Mary)としてだけ知っているし、多くは彼女とスコットランド人の女王メアリー(Mary Queen of Scots)とを混同しており、彼女がイギリスの最初の国王たる女性であったと認識している人ははるかに少ない。・・・」(F)
 (2)メアリーありてこそエリザベスあり
 「・・・試金石か護符かはともかく、二つのことがメアリーを支えた。
 一つは、彼女の尊厳を常に守るであろう(と彼女が感じた)スペイン王室の一員であるという感覚であり、もう一つは、彼女の永久の精神を維持せしめるであろうところの彼女のカトリック信仰だった。
 前者はスペインの現実主義外交に翻弄されることによって相当の打撃を彼女に与えたが、やがて彼女の従兄弟たるスペイン王フィリップとの結婚によって癒された。・・・」(E)
 「・・・イギリスはそれまで一度も女性によって統治されたことがなかった。
 フランスのように、サリカ法(Salic Law<。女性が王位や封を継承することを禁じる規定を持つ。英仏百年戦争の原因となる。
http://en.wikipedia.org/wiki/Salic_law (太田)
>)によってそれが禁じられていたわけではなかったが・・。・・・
 メアリーの母親の母親のイザベラ(Isabella)は、クリストファー・コロンブスの支援者であり資金提供者だったが、初めてカスティーリャ(Castile)王国の君主となった女性だった。
 イザベラは、自分の娘達全員を、(実際娘の「気違い」ジョアナ(Joana “the mad”)がそうなったように)カスティーリャやその他の国を統治する日が来るかもしれないということを予期しつつ育て上げた。
 自分自身が十分な教育を受けていなかったことを悔やみ、イザベラは自分の娘達全員にラテン語とフランス語だけでなくイベリア半島の諸言語の会話を学ばせた。
 そして、これが<ヘンリー8世のお后でイザベラの娘である>キャサリン女王が<自分の娘の>メアリー王妃を、はっきりした世継ぎのいなかったヘンリー8世の死後、イギリスをいつでも統治できるよう、人文主義学者として育て上げた方法だった。
→そのおかげで、エリザベスに対しても、母親のアン・ブーリンがキャサリンと張り合って、メアリー以上の教育を受けさせた、ということでしょう。(太田)
 これに関連する第二の点は、メアリーの伝記作家達によって余り明確には記されたことがない点だ。
 メアリーの敵達は、彼女が「イギリス人というよりはスペイン人だ」と批判した。
 しかし、彼女の祖母のイザベラ及び彼女の母親のキャサリンを通じ、メアリー・チューダー王妃は、彼女の父方の祖父である国王ヘンリー7世に伍するくらい国王たるイギリス人の祖先を持っているのだ。
 ゴーント(ゲント)のジョン(John of Gaunt(Ghent)< 1st Duke of Lancaster, 5th Earl of Leicester, 2nd Earl of Derby, Duke of Aquitaine。>1340~99年。エドワード3世の息子にしてヘンリー4世の父親
http://en.wikipedia.org/wiki/John_of_Gaunt,_1st_Duke_of_Lancaster (太田)
の子孫として、メアリーの拡大家系図は、イギリスの<プランタジネット朝の>ランカスター系の国王達であるヘンリー4世、ヘンリー5世、そして(女性を通じ)ヘンリー6世、エドワード4世、リチャード3世、そして彼女の祖父であるヘンリー7世その人に至るイギリス王室一族の名前で満ち溢れている。
 欧州のすべての王室員と貴族は、家系図を極めて重視した。
 そして、メアリーは、アラゴンとカスティーリャの国王の孫(infanta)であるとともにイギリスのプランタジネット朝の王室員だった。・・・」(D)
→エリザベスよりもメアリーの方がイギリス王室の血がより濃かったとは面白い。(太田)
 「・・・彼女の弟のエドワード6世が1553年に亡くなった時、メアリーが君主になる可能性は小さかった。
 政府のあらゆる既存権力は彼女の王位継承に反対し、彼女を逮捕しようとした。
 しかし、彼女が逮捕を回避し、自分の居所を要塞化すると、その後、短時日のうちに、カトリックとプロテスタントを問わず、指導的貴族達が彼女のもとに結集した。
 イギリスにおける最初の正規の統治者として、<即位した>メアリー・チューダーは次々に先例を打ち立てた。
 これらの先例が、彼女の異母妹であるエリザベス1世が、メアリーの死後、全く反対なしに後を襲うことを可能にした。
 アン女王、ヴィクトリア女王、そしてエリザベス2世女王は、メアリー・チューダーに大いに感謝せずばなるまい、とアンナ・ホワイトロックは<この本の中で>主張する。・・・」(C)
→言われてみれば、確かにそのとおりですね。(太田)
(続く)