太田述正コラム#4344(2010.10.29)
<ガリレオ(その3)>(2011.2.16公開)
 (3)異端審問
 「・・・宗教改革に直面したカトリック教会は、次第に異議申し立てに対して非寛容になって行った。
 1616年に、ガリレオは、自分が書いた手紙が法王庁(Holy Office)の異端審問所の注意をひいた後、<弁明するために>ローマに赴いた。
 その手紙の中で、ガリレオは、聖書は神の言葉ではあるが、人間の能力(capacities)の程度に合わせられていると主張した。
 自然は、しかしながら、「動かし得ないものであり(inexorable)不変である(immutable)」。よって、特定の論議になると、その件に関して聖書に何と書いてあるかよりも、自然についての直接的知識の方が常に優先しなければならない。そして、これらの論議のうちの一つに対する解答は、地球は太陽の周りを動くのであってその逆ではないということだ。と。・・・
 <結局、>ガリレオは、コペルニクス主義を抱き、教え、あるいは擁護することを禁ずる公式の警告を受けた。
 話をややこしくしたのは、同じ頃の1616年3月、法王庁はコペルニクス主義が真実であるとする本を禁止したことだ。・・・」(C)
 「・・・<結果的に>一番大きな役割を演じることになったのは、法王庁で法王に次ぐ実力者であったロベール・ベラルミン(Robert Bellarmine<。1542~1621年。イタリアのイエズス会士
http://en.wikipedia.org/wiki/Robert_Bellarmine (太田)
>)枢機卿だった。
 ベラルミンは、地球が動いているというのは、彼が好んだところの聖書の文字通り解釈に反すると決定し、1616年にこの説を禁止したのだ。
 このため、ガリレオは、もはやおおっぴらにはコペルニクスを支持できなくなり、この禁止を無視したことが、やがて彼を1633年に裁判に引き出すことになったのだ。・・・」(E)
 「・・・<話を先に進めすぎたが、1616年に上記禁令が発出された後、>・・・事態は驚くべき展開を見せた。・・・」(C)
 「・・・1623年8月、ガリレオの長きにわたる友人のマッフェオ・バルベリーニ(Maffeo Barberini)が法王に選出され、ウルバン8世(Urban VIII<。1568~1644年。法王:1623~44年
http://en.wikipedia.org/wiki/Pope_Urban_VIII (太田)
>)と名乗ったのだ。・・・ この成り行きに勇気づけられ、ガリレオは、<自著の>『贋金鑑識官(The Assayer)』<(1623年)>をこの法王に献呈した上で、コペルニクス主義の件について再考を促すためにローマを目指した。
 最初の兆候は期待を抱かせるものだった。
 ヘイルブロンが記すように、「ウルバンは法王としてガリレオを遇し、彼に6回もの私的な謁見を許し、2個の記念章を授与し、…別れるにあたって、雑多な贈り物を贈った。」
 この二人がどれだけコペルニクス主義についてきちんと議論したのか定かではないが、ウートンは、一定の条件が定められたであろうと示唆する。
 すなわち、この問題を再考するにあたっては、賛成論と反対論の双方を提示すること、かつ、かかる科学的論議を行うに際して人間の知識には限界があることを認めることだ。
 しかし、ガリレオは、やがて彼の次の本である『天文対話』を出版した時、これらの条件を無視した。
 『天文対話』は、三人の人物同士の会話の形で書かれたものだが、ウルバンの見解は、この三人のうち最も頭が悪く説得力がないシンプリチオ(Simplicio)の口を通して語られていた。
 法王はかんかんに怒り、この本は没収され<る。>・・・」(A)
 「・・・<要するに、>知的大志と虚栄心がガリレオをして、彼の『天文対話』の中で彼への反対者達と対決するために全てを賭けることにさせたのだ、とウートンは主張する。
→ガリレオは軽率で浅はかな人間であった、ということです。(太田)
 1633年に・・・病んだ68歳の(B)・・・ガリレオは<法王庁の>異端審問所に喚問されたが、『天文対話』の中でコペルニクス主義について議論はしたけれどそれを擁護はしていないとするとともに、そもそも議論すらしてはならないと1616年の禁止令(injunction)に記されていたなどとは全く承知していない、と言い張った。
 <ところが、>この時点で、検事役が切り札を出した。
 ガリレオが初期の本の中で全質変化(transubstantiation) <(聖餐(せいさん)のパンとぶどう酒とをキリストの肉と血とに変化させること
http://ejje.weblio.jp/content/transubstantiation (太田)
)>を否定しているという報告書だ。
 これは、それが仮に証明されたら、ガリレオは、カトリックではなくプロテスタントであるということを含意するという<重大な>嫌疑を意味した。・・・」
 (以上、特に断っていない限り(C)による)
 「・・・ガリレオは自分が熱烈なカトリックであると抗弁した。
 <その上で、彼は、>コペルニクス主義は聖書と矛盾していない・・このことを法王庁はようやく1820年に認めた・・のであるから、カトリック教会は、自分(ガリレオ)がこの主義が異端であると思ったことで自分を責めることはできない、と<抗弁した>。
 <なお、>ウートンは、ガリレオは若い頃から唯物論的自由思想家であったと主張するが、<仮にそうであったとしても、>それは非正統的な類のカトリシズムと必ずしも矛盾するわけではない。
 法王庁当局にとっては、この論議は、<嫌疑をかけられた>人物が、コペルニクスの理論を便宜的な(convenient)数学モデルと考えるのか、それとも文字通りの真実の声明と考えるのかどうかにかかっていた。
 しかし、ガリレオは、地球が潮を動かしていることを示す決定的証拠があると信じていたのだ。
 月の重力について何も知らないまま、彼は潮は地球が太陽の軌道を動く(orbitの)際の地球の変転(turning)によって起きると考えた。
 ヘイルブロンは、この「致命的かつ誤謬の理論」はガリレオがパオロ・サルピ(Paolo Sarpi<。1552~1623年。ヴェネティアの教会法の学者・歴史家・科学者
http://en.wikipedia.org/wiki/Paolo_Sarpi (太田)
>)から借用したのではないかと説明する。・・・」(B)
→これはひどい。ガリレオは、望遠鏡を実用化した以外は、コペルニクスの説を復唱しただけの人だったということなのかもしれませんね。(太田)
 「・・・拷問するぞと脅かされたガリレオは、<ついに自分の説を>撤回した。・・・」(B)
 「・・・<しかし、>1633年6月、・・・<結局、>ガリレオは裁判にかけられ、異端として有罪を宣告された。
 <そして、>今や発禁となったこの本の1冊がガリレオの面前で燃やされた。
 その少し後で、彼はフィレンツェ近くの彼の家に戻ることを許される。
 その場所で、彼はその生涯の残りの8年間、軟禁状態に置かれることになる。・・・」(A)
 「・・・<こうして、>ガリレオは1642年に異端審問所の囚人として死んだ。
 <そして、ようやく>1992年になって、カトリック教会は、この世俗的聖人に対する取り扱いについて謝罪をすることになる。・・・」(C)
→コペルニクスの説に対する法王庁の姿勢がころころ変わったことも責められるべきでしょうね。
 そもそも、宗教が科学にくちばしを挟むなどということは、あってはならないのはもちろんです。(太田)
(続く)