太田述正コラム#4422(2010.12.7)
<ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その4)>(2011.3.13公開)
(7)上記考え方への批判
「・・・<ヒットラー>総統を<ドイツ>皇帝の後継者の代表と見るのはミスリーディングだ。・・・
ヒットラーがスラブの非人間達から<その土地を奪ってドイツの>生存圏を確保しようとしたことは、ドイツのアフリカにおける帝国的努力の傾注とは、ほとんど、或いは全くと言ってもよいほど関係がない。・・・」(A)
「・・・<ドイツ>皇帝のアフリカにおける人種的諸政策は、主として、帝国的大国として、英国と競い合おうという動機に根ざすものであって、身の毛のよだつものではあったけれど、組み立て作業的な人間のガス室送りとは異なったものだった。・・・」(B)
「・・・欧州の植民地主義とナチズムとのつながり、という観念は、決して新しいものではない。
それが初めて定式化されたのは、第2次世界大戦終了直後のことであって、アフリカ系米国人たる知識人のウェブ・デュボイス(WEB Du Bois)が、『世界とアフリカ(The World and Africa)』の中で、ナチの残虐行為であるところの、強制収容所、大規模な傷害・殺害、女性を汚すこと、子供達へのぞっとするような涜神的行為の中で、欧州のキリスト教文明が、世界を支配すべく生まれてきたより優れた人種の名の下で、自分達のために、世界中のあらゆる場所で有色の一般民達に対して長らく実践してこなかったものはない、と主張した。・・・
その数年後、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の主著である『全体主義の起源(The Origins of Totalitarianism)』は、帝国主義が欧州に及ぼした道徳的腐敗効果という洞察力に富む解釈を提供した。
アーレントによれば、欧州諸国の植民地地域は、人種的教義と実践の実験室として機能し、それらがその後欧州に再輸入されたというのだ。
近年、大西洋の両側の歴史家達は、これらの重要な主張を再発見し、いわゆる欧米の植民主義のジェノサイド的本性と、ナチスドイツによって束縛を解かれた大量暴力との関係、に関する論議を行ってきた。
かつて支配的であったところの、ホロコーストの特異性なる観念が、豪州とアフリカからアジアと南米までの様々な植民地的文脈の下で、より小さな、より些末な、或いはより不完全な諸ジェノサイドの影を余りにも長く薄めてきた、ということについて確信を抱いたところの、何名もの歴史家達は、最近、ドイツ人達の手による600万人のユダヤ人の殺害は、欧州の帝国的諸大国の諸植民地に始まったところの、人種主義的動機に基づく組織的大量殺害という長き伝統の絶頂点であったと示唆しているところだ。
<ところが、両著者達によるこの>本は、それとは対照的に、ドイツのナミビアにおける残虐行為に狭く焦点をあてている。
19世紀のフランス領アルジェリア、米国がコントロールしていたフィリピン、そしてスペイン領キューバを見るという、より比較的な分析を行っておれば、<彼らは、>帝国的ドイツの、その植民地における暴力的な実践は、新しいものでも異例なものでもなかった、ということが分かったはずだ。
叛乱的な原住民に対する懲罰的な諸措置は、植民地地域では共通に実践されていたことだし、スペイン人は、ドイツが強制収容所を南西アフリカに導入するずっと以前からそれをキューバで用いていた。
ドイツの植民地における諸実践だけに狭く焦点をあてることは、どうして最も長く究極的には最も暴力的な植民地おける記録を残したところの、欧米諸国である、フランス、英国、米国、そしてオランダが、自分達の本国たる欧米では決してジェノサイド的暴力に訴えることなく20世紀を通じて民主主義国家であり続けたのか、という重要な問題を見逃してしまうことになる。
仮に植民地における暴力とホロコーストが直線的に続いていたとするのならば、どうして、その帝国がわずかに30年しかもたなかったところの、唯一の欧州の大国であるドイツだけがそうであったのだろうか。
この本の2つ目の弱点は、1904年の残虐行為とホロコーストとの間の個人的つながりという鍵となる主張に関する証明がなされていないところに存する。
<共著者達は、>1904年と1941年の間の溝に架橋しようとして、1つの世代から次の世代への知識の移転を指摘する。
すなわち、彼らは、ヘルマン・ゲーリングが、最初のドイツ南西アフリカ総督(Reich Commissioner)(1885~91年)であった彼の父親を通じて、ドイツの拡大主義の主唱者になったと主張する。
しかし、ゲーリングは1893年に生まれたのであり、その時、彼の家族はもはやアフリカには住んでおらず、ナミビアで殺人的な様々な出来事が起こる10年も前に当地を離れていた。
ゲーリングに関する数多くの伝記的な本は、彼の生涯における、そして彼の生涯に影響を及ぼした様々な転換点を列記しているが、ヘレロの蜂起がそのうちの1つでないことは間違いない。
<共著者達は、>元<南西>植民地の士官であって、後に<ワイマール共和国時代にナチス系諸>民兵(Freikorps
http://en.wikipedia.org/wiki/Freikorps (太田)
)<の1つ>の隊長となり、更には第三帝国において植民地庁(Colonial Office)長官を勤めたところの、フランツ・ザヴィエル・リッター・フォン・エップ<(前出)>にも言及し、彼がアフリカと第三帝国との間の個人的継続性の著名なる事例であるとする。
しかし、エップは、第三帝国による<ユダヤ人>絶滅諸政策には何の影響力も持っていなかったし、1943年のドイツ植民地庁閉鎖に至る過程において、ナチスの政策形成部門から加速度的に疎外されて行った<人物にほかならない>。
ナチスの東方への拡大及びホロコーストのルーツの探求に関しては、ナチスの「再植民化」諸幻想を刺激した点で、欧州内における非植民地化過程、すなわち、1918年のハプスブルグ諸帝国の解消、或いはそれと同時に行われたところの、ポーランドとリトワニアへのドイツ領域の強制的割譲、の方が、短期間しか続かなかったところの、ドイツのアフリカにおける植民地帝国よりも重要であるかどうかを考慮した方が、より実りがある、ということになるかもしれない。・・・」(C)
3 終わりに
ドイツによる蛮行によって南西アフリカの原住民人口は激減したわけですが、もともとの原住民人口(2部族だけのものですが)の少なさから、この地に後発帝国主義国のドイツが進出できた理由が想像できます。残りものであったということなのでしょう。
そのドイツによる植民地統治のうち、南西アフリカにおけるそれが一番酷かったということのようですが、一番酷かったところで、各国による植民地統治を比較すべきであると思います。
いずれにせよ、そのような形で比較しても、欧米諸国による植民地統治は、いずれも甲乙つけ難いほど酷いものであった、と言って間違いないでしょう。
ただし、その中でひと味違っていたのが英国による植民地統治です。
引用した文章の中で、英国については、英領ベチュアナランドに南西アフリカの原住民達が逃げ込もうとしたとか、英国の一将校が、ドイツの南西アフリカ統治に憤って糾弾の文書を書いたとか、また、英国の植民地統治の具体的悪行への言及がないとかいったことからも、英国と、欧州諸国並びに米国、とを比較すると、英国の植民地統治が後者よりも人道的であったことがお分かりいただけると思います。
ただし、それは、英国が積極的に悪行に手を染めることが少なかったというだけのことであり、英国による消極的な悪行、典型的には、インドのベンガル地方における2度にわたる大飢饉の出来と放置(コラム#省略)、はめずらしいことではありませんでした。
他方、日本の植民地統治は、安全保障上の理由から行われたものであり、欧米諸国のように植民地の収奪を目的とするものではありませんし、このこととも関連して、積極的な悪行がほとんどなかったことに加えて、消極的な悪行もまたほとんどなかった、といった点で極めてユニークなものであったのです。
ところで、この本の共著者達は、劣等人種の絶滅による生存圏の拡大、という発想が、あたかもドイツ人の専売特許であるかのような書き方をしていますが、我々は、既に、この発想の起源が英領北米植民地/米国であった(コラム#4412、4414。なお、#4408も参照。)ことを知っています。
別途検証する必要がありますが、この発想はドイツが米国から学んだものである可能性が大です。
米国では、この発想を実践に移し、原住民たるインディアンはほぼ絶滅したわけですが、帝国的ドイツは南西アフリカで特定の部族に対してこれを実践に移そうとして途中で止め、その後継たるナチスドイツは、ユダヤ人に対して実践に移し、欧州におけるユダヤ人はほぼ絶滅した、ということになるわけです。
すなわち、かつての人種主義的帝国主義の米国≒ナチスのドイツ、というのが私の現時点での考えなのです。
(完)
ドイツの南西アフリカ統治をめぐって(その4)
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