太田述正コラム#4494(2011.1.12)
<日露戦争以後の日本外交(その6)>(2011.4.8公開)
<行政協定の効力についての補注>
寺本は、Griswoldの本を典拠として、「高平・ルート協定・・・は桂・タフト協定と同様に・・・アメリカの慣行に従って交渉を行った政権だけを拘束するだけであった。」とし、駐米英国大使プライスの12月1日付のグレー<英>外相に宛てて、「上院の批准も行なわれず、終了間近い(翌年1月迄)ルーズベルト政権と締結したこの協定の有効性に疑問を投げかけていた・・・。」とし、更に、Leopoldの本を典拠として、「・・・高平・ルート協定は単なる行政上の協定であり、それ故にルーズベルトの後継政権を拘束しなかった・・・」としている。
日本政府は、恐らくは分かっていながら、ルーズベルトによる、この一連の国家的詐欺話に乗るほかなかったのであろう。
実際、寺本は、「ルーズベルト政権の後、ドル外交を貴重とするタフト政権<は>反日的な極東外交政策・・・<を>執る」ことになる(後出)、としている。
(以上、「日本政府は・・・」の一文を除き、461~462による。)
——————————————————————————-
「<1908年時点で、>ニュー(Charles E. New)によれば、ルーズベルトにとってはカリブ海政策や国内での革新政策の方が重要であり、それに比べて遙かに・・・「末梢的な関心」(peripheral concern)の地域である・・・清国や満州でのアメリカの権益を守るために危険な政治的賭けを敢えて行う気は全くなかった。むしろ、ルーズベルトにとって極東を支配するのは日本が最も適当であり、従って日本と友好を維持すること・・・<が>重要であったとする。」(453)
「<1908年12月、>ルーズベルトは<米国>に滞在している唐紹儀<(注7)>に対して・・・仮に日米戦争が起る場合は純粋にアメリカの利益が侵害された時であり、当時の情勢では清国のために日本と戦争を行う意志もなく準備もないことを明確に語った・・・。・・・
1909年1月2日、独帝ヴィルヘルム2世に宛てて「清国人は、内政にせよ外交にせよ確固たる政策を実行するには余りに無力であり、それ故に彼等と付き合うには非常に慎重にならざるを得ない。」と述べ・・・<1910年12月22日>、タフト大統領に宛てて「清国との同盟は、清国の軍事力の絶対的な脆弱性という観点から見れば、むろん我が国に力を与えるものではなく逆に新たに引き受けなければならない荷物(additional obligation)を意味する」・・・<と>述べていたのである。」(458~459)
(注7)1860~1938年。唐は、清の重臣として、義和団事件の結果締結された北京議定書をめぐる交渉のために、米国に派遣されていたもの。中国国民党政権の下でも要職を歴任するが、1934年から上海に寓居し、1937年からは、汪兆銘政権への傘下を求められたが言を左右にしているうちに、翌年9月、蒋介石政権の諜報機関によって暗殺された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%90%E7%B4%B9%E5%84%80
→叔父に優るとも劣らぬ人種主義者であったところの、甥のフランクリン・ローズベルトが、この叔父並みの常識的「見識」すら持っておらず、支那の蒋介石政権を支援した結果、日本は次第に窮地に追い込まれて行くことになるわけです。(太田)
「タフト<(William Howard Taft。1857~1930年。大統領:1909~13年
http://en.wikipedia.org/wiki/William_Howard_Taft (太田)
)> 政権は、・・・1912年12月3日の議会への教書の中で、過去4カ年の業績を振り返って次の様に演説している。「現政権の外交は、・・・弾丸に代えてドルを用いることに特徴がある。…それは率直に言えば、アメリカ政府が、合法的で有益な海外のアメリカ企業に対して全ての適当な支持を与えるという公理的原則に基づいてアメリカ貿易を増進させるという努力である。・・・」・・・<すなわち、>タフト政権は、日本の満州進出を黙視すること<(=高平・ルート協定)>を容認せず、国務省が中心となって金融、実業界と組んで「ドル外交」を満州で展開<した>のである。」(472)
「<1908>年夏に、・・・アメリカの鉄道王ハリマン<は>・・・ロシア政府に東清鉄道を手離す意思があるかどうか打診<したが、>・・・日本も同様に満鉄を売却するという条件付きでロシアも東清鉄道を売却することに同意していた<ものの、>・・・翌<1909>年2月、日本<は>満鉄を売却することを拒絶<したため、この話は>・・・頓挫していた。・・・
<今度は、タフト政権そのものが乗り出してきて、>米国国務長官ノックス<(Philander Chase Knox。1853~1921年
http://en.wikipedia.org/wiki/Philander_C._Knox (太田)
)>が、1909・・・年11月・・・に・・・満州諸鉄道の国際管理(中立化)提案<を行った。>」(473)
→タフトも、メンターのセオドア・ローズベルト並みの常識的「見識」を持っておらず、高平・ルート協定は、ただちに反故にされてしまったわけです。(太田)
「<これに対するに、>『時事新報』と『国民新聞』の記事<に代表される>・・・日本の世論<は、>・・・満鉄の放棄は満州の放棄を意味し、もし中立化の原則が満州に適用されるのであれば、山東省におけるドイツ、雲南省におけるフランスの鉄道、清国内のイギリスの鉄道等、清国領土全般にわたる外国の鉄道に適用されなければならないという<ものだった。>」(475)
「フランス政府は、<1910年>1月12日、ピション外相が、栗野駐仏大使に対して、アメリカの最近の外交政策は「帝国主義」的傾向を帯びると同時に「清国の保護者」を自負しており、今回のノックス提案を承諾すれば満州は実際上「米国の有に帰せしむる」ことになるとの鋭い指摘を行っていた・・・。」(479)
「<ロシア政府も反発し、英国政府も後述のような考えであり、結局、>日露間に於ける事前の打ち合わせが行われた後、・・・日本側回答が1月21日に<米側に>交付された。・・・
ロシア政府も、1月21日に、・・・<拒否回答>をした。」(476~477)
「ブライス駐米英国大使は、ノックス提案について、「彼(ノックス)は、絶望的なまでに国際政治や政策の諸原則について無知であり、彼の心をその問題に向け学ぼうとするには、余りに老齢あるいは怠慢である。彼によって組織された悲惨な国務省には彼を指導できる人物はいない。」と・・・指摘していた。ニコルソン駐露英国大使も、「日露両国に予め相談することなしにドイツや清国と外交的陰謀を図ることは、外交的素養の欠如を示すものである」とし、「ノックスの軽薄な提案」(Mr. Knox’s frivolous proposal)とまで酷評していた。」(480~481)
→米国は、デラシネの集まりである(コラム#4433)という国の成り立ちからして、その指導層と雖も、外国の人々の心情が分からず、従って「外国的素養<が>欠如」し、「絶望的なまでに国際政治や政策の諸原則について無知」なのです。
ところが、英国のチャーチル政権は、第二次世界大戦において、こんな国際情勢音痴の米国につけ込み、日本を犠牲にしてナチスドイツとの戦いに米国を引きずり込むというとんでもない戦略をとった結果、ナチスドイツは壊滅させ得たものの、赤露に東アジアと東・中欧を献上した挙げ句、大英帝国の過早な瓦解を招いてしまうわけです。
その結果、名実ともに英国に代わる世界覇権国となったところの、相も変わらず国際情勢音痴の米国によって、第二次世界大戦後の世界は引っかき回されることになり、人類全体が苦虫を噛みつぶしつそれに耐えて現在に至っているわけです。
(続く)
日露戦争以後の日本外交(その6)
- 公開日: