太田述正コラム#4637(2011.3.22)
<ロシア革命と日本(その4)>(2011.6.12公開)
 「<英国>政府の訓電をうけて2月27日、レディング Marques of Reading <英>大使は<米大統領の>ウィルスンを訪ね、<以下の文書>を手交し・・・た。それはロシアの最近の事態は「極めて緊急」であり、「第一に、ウラディヴォストークに集積されている軍需物資を保護し、…第二に、バイカル湖以西の莫大な農産物を敵に利用されるのを防止する上からも」、「即刻日本軍をしてシベリア鉄道の占領を少くともオムスクの地点まで行なうよう要請すべきであり、同時にロシア国民を安心させる内容の宣言をすべきである」としたものであった。さらに、日本軍をアムール鉄道とシベリア鉄道の交差点以西にまで進めるために、連合国の「受託者」として単独に行動させるべきであり、財政的援助をあたえることすら考慮すべきであるとした。・・・
 フランス側はすでにピション S. Pichonn 外相が松井駐仏大使に<英国の意向>に同意の意向をしめし、シベリア鉄道管理については、
 「米国の軍隊が協力するというようなことは不必要なばかりでなく、その軍隊が多大の貢献をなすことは不可能であり、日本が単独で引きうけるべきである」
とのべていたが、2月27日、ジュセラン J. Jusserand 駐米フランス大使は<米国務長官の>ランシングに、
 「本野<外相>は駐日フランス大使との会見で、日本に領土的野心のないことを公に声明することを承諾し、軍事行動をウラル山脈まで延長することを約束する用意のあることを明言した」
と伝え、イギリスと共同戦線を張って、日本を「受託者」としてシベリア軍事干渉を実現せしめるよう、アメリカの政策変更を強く迫っ・・・た。・・・
 連合国最高戦時会議のアメリカ軍事代表ブリス Tasker H. Bliss 参謀総長からも出兵支持の意見がワシントンに伝えられていた。・・・<彼は、>
 一、ウラディヴォストークからハルビン・・・までのシベリア鉄道占領は、軍事的利点が大きく、それは予想される政治的マイナスを凌駕する。
 二、日本から適当な保証をえることで、日本軍による同鉄道の占領を勧告する。それに連合国共同委員会が附随することが望ましい。
 三、シベリア鉄道の右の範囲をこえた占領は、情勢の発展に応じて連合国政府の決めるところとする。
<と主張した。>・・・
 <その結果、>ランシングの心理は動揺し、日本の出兵容認の方向に傾斜していった。・・・
 3月1日、・・・ウィルスンは・・・一つの覚書をしたため・・・た。
 <それは、>日本を「受託者」として、シベリアで出兵行動をとらしめるという英仏の政策に反対しないとのべ、従来の態度を撤回した<ものだった。>
 <しかし、これは、>アメリカ政府内部に<おいて、>・・・ハウス<等の>・・・強硬な反論をひきおこした。・・・3月5日、新しい覚書が<ウィルスン>のもとで書かれ・・・た。・・・
 かくて・・・アメリカの政策は、もとの地点へと戻ったのであった。」(30~32、35)
 「<そんなところへ、>4月4日午前、ウラディヴォストーク市内の石戸商会を襲った賊<が>、日本人3名を殺傷して逃亡した。加藤司令官は、<日本や与国の居留民の声明財産に危害が及んだ場合にのみ自衛上必要な措置をとれ、とのかねてからの日本政府からの指示を踏まえ、>本国政府の訓令を俟たずして陸戦隊上陸を決意した。翌5日未明、・・総数533名を揚陸させ、市内の警備につかしめた。イギリス軍艦サフォークからも50名の陸戦隊がこれにつづき、イギリス領事館の警備についた。
 <米国の意向を気にする日本政府内で、そんな情勢になったというのに、なお陸軍出兵論が受け入れられなかった本野外相は、>4月23日、外相の職を退く。・・・
 このような状況の中で、・・・ウラディヴォストークでのボリシェヴィキの権力が確立し<てしまう>・・・。・・・
 丁度この時点、同市には新しい様相が生まれつつあった。すなわち欧露からヨーロッパの西部戦線へと移動途上<であった>チェコスロバーク軍団が続々と<ウラディヴォストークに>姿を現わしはじめていた<のだ>。・・・日本では・・・後藤新平内相が新しく外相に就任した。かくてシベリア出兵問題は新しい段階へと移行してゆく。」(43~45、47)
→英日仏政府、及び米軍部の強い要請にもかかわらず、ウィルソン米大統領は、日本のシベリア出兵に反対し続けたため、ロシア極東にもボルシェヴィキの権力が確立してしまったわけです。
 ウィルソンやハウスの人種主義に基づく日本不信、日本蔑視がどれほど強かったかが想像できます。(太田)
(続く)