太田述正コラム#4645(2011.3.25)
<ロシア革命と日本(その7)>(2011.6.15公開)
「<ところが、1919年>8月末、アメリカ政府が正式に決定した処置は、強硬な言葉で抗議の意思表示を日本側に伝達し、その中で共同出兵からの離脱と、離脱声明の可能性を示唆することであった・・・。
9月5日、日本政府はアメリカの抗議ノートを受けとるが、それは政府にとって前年以上に大きな衝撃であったと考えられる。というのは、5月を転機にウラルの内戦の様相は一変して、コルチャク軍は敗退に転じ、8月に入るともはやコルチャク政権の崩壊と、バイカル以西のボリシェヴィキ化は必至の形勢となり、したがって政府指導者にとっては、日米の軍事提携のいっそうの緊密さが、要望されるにいたってきたからである。しかも・・・田中陸相は8月13日、外交調査会委員に覚書きを送って、「世界的大変乱に伴ふ国民思想の動揺は未た楽観すへからさるものあり況んや朝鮮に於ては帝国は既に諸派[ボリシェヴィキ派…筆者]の侵襲を受けたるを自覚し今に於て大に之に処するの途を講せさるへからさるなり」とのべ、シベリア派遣軍増強の必要を訴えたが、この年の早春、約200万の朝鮮人民を、日本帝国主義との闘争にかり立てた朝鮮民族解放運動(3・1事件<(注6)>)のはげしさは、日本政府を震撼させたものであり、したがってこの上に影を落したボリシェヴィズムの脅威に対抗して、予防策の必要を痛感していたのは、何も田中陸相ひとりではなかったろう。
コルチャク軍総崩れの報に、参謀本部では、日本軍を約10倍に増強して、ボリシェヴィキ軍の進出をバイカル湖の線で実力で阻止し、極東3州から満蒙、朝鮮方面へのボリシェヴィズムの浸潤を防遏するという方針をたてて、政府の承認を求めるが、このような大規模出兵はもとより脆弱な日本の財政力が許すはずがない。・・・
モリス<駐日米>大使は、国務省への報告の中で、・・・
「日本政府は、アメリカが道義的責任と負担を分担しないかぎり、前進する赤軍との武力衝突の危険をおかし、いわば、アジアの反ボリシェヴィズム戦争ともみられるものに深入りすることを欲していない。…日本政府は、ボリシェヴィズムの東方への波及と、アジアの不穏な大衆に対するボリシェヴィキの宣伝の結果を怖れて、殆んど心理的恐慌状態に陥っている。しかし、政府はバイカル東方に安全地域をつくるに必要な社会的・財政的負担を単独で背負う意向をもってない」
としるしたとき、それはまさに事態について正鵠をえた観測を下していたといえよう。」(71~73)
(注6)「第一次世界大戦末期の1918年・・・1月、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンにより”十四か条の平和原則”が発表されている。これを受け、民族自決の意識が高まった・・・留日朝鮮人学生たちが・・・「独立宣言書」を採択した(二・八宣言)ことが伏線となったとされる。これに呼応した朝鮮半島のキリスト教、仏教、天道教<(東学)>の指導者たち33名が、3月3日に予定された大韓帝国初代皇帝高宗の葬儀に合わせ行動計画を定めたとされる。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95
→3・1事件の上にボルシェヴィズムが影を落とした、との説はないので、ここは細谷の筆が滑ったのでしょう。
田中義一は、1921年の中国共産党の結成や1925年の朝鮮共産党の結成
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A
を予見した、ということだと思います。
第二次世界大戦後、「≪米国≫政府は、ボリシェヴィズムの≪世界≫への波及と、≪世界≫の不穏な大衆に対するボリシェヴィキの宣伝の結果を怖れて、殆んど心理的恐慌状態に陥って・・・≪世界において≫安全地域をつくるに必要な社会的・財政的負担を単独で背負う意向をもっ」たことを我々は知っています。
米国がその四半世紀前に、日本や英国と協力してボリシェヴィズム、すなわち赤露を撃滅ないし封じ込めることを怠った結果、数千万人の人々が不慮の死を遂げることになったわけです。(太田)
「<そこへ、>11月半ば<に>オムスク<(注7)が>陥落<し、>コルチャク政権瓦壊<は>挽回し難い形勢<とな>った。加えて、英仏両国もすでに8月、シベリアからの撤兵方針を決定していたが、12月中旬には両国首相会談でシベリアの経済援助の中止についても意見一致を見ていた<(注8)>。・・・
1920年1月5日、アメリカ政府は、撤兵政策の実施を最終的に決定した。しかも、・・・9日<の>・・・国務省からの正式の通告に先だって、グレイブスは1月8日、日本派遣軍当局に撤兵通告を行ない、その実行に着手したのであり、それは、国務省、参謀本部、派遣軍三者間のコミュニケイションの欠陥にもとづく手落ちであったものの、日本側がこれによって対米不信感を募らせたのは当然であった。モリスは、ワシントンに報告した。「日本の誇りに対してのみならず、日本における全ての自由主義者、親米勢力に対する脳天からの一撃であり、甚大な影響力をもつことをおそれている」と。・・・
ボリシェヴィキ軍との武力衝突の危険な情勢が出現したとき、たちまちにして共同出兵は断絶に立ち至ったのである。
シベリア出兵で、その断層を露出した、日米関係の<こ>のような構造は、その後太平洋戦争にいたるまで根本的変化を見るにいたらなかったといえるであろう。」(75~77、83)
(注7)「ロシア・・・中南部の都市。・・・1716年に建設され、・・・シベリア開拓の拠点として知られ、ながらく西シベリア総督が本拠を置く西シベリアの中心都市でもあった。・・・革命戦争の折には、一時、コルチャーク提督率いる白衛軍の首都ともなった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%82%AF
(注8)英国が、撤退させる方針を1919年12月に決めたのは、西シベリアのオムスクでコルチャク政権を支援していた英軍であり、英国はロシア干渉戦争からこの時点で全面的に手を引く決定をしたわけではない。カスピ海地域で英軍は戦いを続けたのであって、英国が同地域から英軍を撤兵させる決定を下したのは1920年1月21日であり、撤兵が完了したのは4月5日だ。
http://en.wikipedia.org/wiki/Allied_intervention_in_the_Russian_Civil_War
→調べなければならないが、英国がロシア干渉戦争から全面的に手を引く決心をしたのは、1920年1月に米国がシベリアから撤兵し、ハシゴを外されたと感じたからではないでしょうか。(太田)
(続く)
ロシア革命と日本(その7)
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