太田述正コラム#4663(2011.4.3)
<再びガンディーについて(その4)>(2011.6.24公開)
(3)ガンディーの差別意識
ア 人種
「ガンディーは、すぐに<南アの>ナタール(Natal)州のインド人ビジネス・エリート達のスポークスマンとなり、全面的なアパルトヘイトへと向かって急速に進化しつつあったところの差別的法制体系に反対するためのロビイング活動に従事した。
後の彼の主張とは異なり、ガンディーは、ただちに債務労働者達(indentured laborers)・・彼等は主として低いカーストの南インド人たる下層階級であって奴隷に近い条件の下で鉱山やプランテーションで働かされるために連れられてきた・・の権利擁護を行ったわけではない。
彼は後年におけるような、堅固な反帝国主義者にもまだなってはいなかった。
英植民地当局から譲歩を獲得する目的で、彼は、ボーア戦争に従軍するインド人患者運搬車大隊を組織したし、1906年には不名誉な挿話であるけれど、(やはり患者運搬車軍団の指導者として)ズールー族の蜂起を弾圧するのを手助けした。
ガンディーの南ア時代を通じ、多数派たる黒人と共通の大義に立とうとする試みについてのいかなる兆しも見られなかった。
ズールー族の受刑者達と一緒に収監されたガンディーは、無意識のうちに「くろんぼ(Kaffir)どもは、概して文明化されておらず、受刑者達は一層そうである」と報告している。
「連中は手に負えず、不潔でほとんど動物のように生きている」と。」(D)
「ガンディーの非暴力主義は、彼を米国の市民権運動にとっての偶像に仕立て上げたが、レリヴェルド氏は、彼が、南アの黒人に対して、どれほど容赦なく人種主義的であったかを示す。
南アに住み着いたインド人達の権利ための運動の一つに際して、ガンディーは、「我々は、それから、くろんぼ達のために用意された刑務所に歩きで連れて行かれた」と不満を述べた。
「我々は、自分達が白人と一緒の仕分けにならなかったことが理解できなかったが、原住民達と同じレベルに置かれたことは、耐え難いことのように思えた・・・」と。
南アのナタール州の州議会への公開書簡において、ガンディーは、どのように「インド人達が、根っからのくろんぼ達の立ち位置へと引き下ろされているか」について記した。 「くろんぼ達の生業は狩猟であり、妻を買うために必要な数の牛を集めるのが彼等の唯一の大志であり、<妻を買った>後は怠惰と裸体のうちに人生を送る」と。
<また、>「我々インド人は、人種の純粋性について、白人たるアフリカーナの思い入れと同じくらいの思い入れがある」と彼は記した。
恐らく、そうだからこそ、公的にはイスラム教徒とヒンドゥー教徒の団結を推進しつつも、彼は、自分の息子のマニラル(Manilal)がイスラム教徒のファティマ・グール(Fatima Gool)と結婚するのを認めることを拒絶したのだろう。」(A)
イ カースト
「ガンディーは、不可触賤民のために立ち上がる気持ちはあったが、1924年から25年にかけて、彼等がヒンドゥー教寺院で礼拝をする権利を要求していた、という決定的な時には、何もしなかった。
彼は、ヒンドゥー教徒の高いカーストの人々を遠ざけやしないか、と心配したのだ。
「君はゴスペルを牛に教えようというのかね」と彼は1936年に彼のところを訪れたキリスト教伝道使節団に訪ねた。
「不可触賤民の幾ばくかは、その理解能力において牛よりひどいのだよ」と。
ハンストは、「脅迫の最悪形態であって、非暴力なる根本原則に背馳するものである」としながら、ガンディーは、1932年に不可触賤民が将来のインド国会において割り当て議席を得ることを妨げるために、彼の最初の大断食を決行した。
彼に言わせれば、それは「政治的問題ではなく宗教的問題」だったから議論の余地はないのだった。
彼は別の時に、「不可触賤民<(=カースト外のヒンドゥー教徒)>制を廃止したとしても、それは、カースト内のヒンドゥー教徒が元不可触賤民達と食事を共にしなければならないことを意味しない」と語ったことがある。
1930年代の、何万人もの人々からなる大群衆を集めた彼の反不可触賤民制集会において、不可触賤民達自身はカースト内のヒンドゥー教徒達から遠く離れた柵内に留め置かれた。」(A)
「仮にインドが自由になるに値する存在であるとすれば、不可触賤民[制]はなくならなければならない」とガンディーは説教した。
しかし、彼の集会の多くで、不可触賤民は別途収容柵内に隔離された。
それは、彼等がカースト内のヒンドゥー教徒達によって出しゃばりすぎであると見られることを恐れたか、あるいは、地方の集会主催者達が、反不可触賤民制集会において不可触賤民制を顕示することの矛盾に気づかなかったか、そのどちらかだ。」(F)
「ガンディーは、その一生の間に4つの大きな運動・・ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の団結、英国製繊維製品輸入反対、不可触賤民制廃止、インド亜大陸からの英国人の立ち退き・・を行ったけれど、最後のものだけが成功した。
しかも、その理由は、単に、反帝国主義者たるクレメント・アトリー(Clement Attlee)によって率いられたところの、破産したに等しかった英国人達が、彼等を衰弱させた世界大戦が終わり、何が何でもインドから去りたかったからに過ぎなかった。」(A)
「ガンディーは、彼の軌跡において多くの敵・・彼がイスラム教徒に対して過度に同情的であると思った正統派ヒンドゥー教徒達、彼の宗教的団結への呼びかけをヒンドゥー教徒達の陰謀の一環と見たイスラム教徒達、彼を山師であると考えた英国人達、彼を反動と思った過激派の不可触賤民達・・をつくった。。
しかし、敵対者達の中で最も容赦がなかったのは、いまだに欧米ではほとんど知られていないところの、才気煥発にして気短な不可触賤民指導者たるブームラーオ・ラームジー・アンベードカル(Bhimrao Ramji Ambedkar)<(注3)>だった。
彼は、不可触賤民制を払拭しようとするマハトマ<・ガンディー>の非暴力主義的努力を、せいぜいのところ、<ガンディーの>余興に過ぎないと見た。
彼は、ガンディーが創り出したところの、自分達についての「ハリジャン(Harijans)」ないしは「神の子供達」という言葉にさえ、恩人ぶっているとして反対した。
彼は、サンスクリットの「押しつぶされた」、「壊された」から来る「ダリット(Dalits)」という言葉の方を好んだ。」(B)
(注3)1891~1956年。コロンビア大学、LSEに留学した法学者。インドの憲法を起草。仏教に改宗。
http://en.wikipedia.org/wiki/B._R._Ambedkar
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AB
(続く)
再びガンディーについて(その4)
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