太田述正コラム#4665(2011.4.4)
<再びガンディーについて(その5)>(2011.6.25公開)
(4)失格政治家
「1914年にガンディーはインドに戻り、自治を目指しての闘争に自分自身を投じた。
しばしば英国当局によって投獄されつつ、彼は、市民的不服従運動(campaign)を率いたが、その絶頂は1930年の塩の行進運動(movement)だった。
それは、レリヴェルド氏が記すところによれば、「英インド統治(Raj)を震撼させ」、ガンディーが海辺に赴き塩をつくるという単純な行動によって英国の課した税金を無視した時、90,000人が逮捕されるに至った。」(D)
「彼の生涯をかけた自治(スワラジ(Swaraj))運動にもかかわらず、ガンディーが市民不服従運動がうまく行きかけるたびに決まって放擲したようなことがなければ、自治はもっと早く実現していたことだろう。
3億人のインド人がその0.1%の数の英国人によって統治されていたのであるから、インドが政治的に団結していたならば、インド亜大陸における英インド統治を終わらせることなど容易であったはずだ。
しかし、インドの9,000万人のイスラム教徒達の指導者たる(ガンディーが「マニアック」であると呼んだところの)ムハマッド・アリ・ジンナーを苛つかせ挫折感を抱かせるガンディーの奇っ怪なる能力は、早期独立のいかなる希望も打ち砕くものだった。
彼は、同様、この国の5,500万人の(触ることで上位諸階級を汚すと思われていたところの)不可触賤民を代弁したB.R.アンベードカルを疎外した。
アンベードカルは、ガンディーを「邪(devious)で信用できない(untrustworthy)」と宣言した。
1900年から1922年の間、ガンディーは、少なくとも3回、運動の継続を中断したことがあり、投獄された15,000人を超える彼の支持者達は見捨てられた形になった。」(A)
「「一人でもユダヤ人が立ち上がってヒットラーの布令に対して屈することを拒否すれば、ヒットラーの心を融かす」に十分なのかもしれない、とチェコ人達やユダヤ人達に、ナチスに対して非暴力主義をを採用するよう彼が助言した、というのが本当かどうか確たることは分からない。
(非暴力主義は、ガンディーの見解によれば、日本の侵略者達に対するところの支那人においても機能したことは間違いないはずだった。)
アドルフ・ヒットラー宛の手紙を「我が友」で始めたガンディーは、利己主義的にも次の様に<ヒットラーに>尋ねた。
「戦争的手法を意図的に拒絶することでかなりの成功を収めた者<である私>のアッピールに耳を傾けていただけないか」と。
彼は、パレスティナのユダヤ人達に、「アラブ人達の善意に委ね、アラブ人達の世論が熟するまで」ユダヤ人国家をつくるのを待つ」ように助言した。」(A)
(5)胡散臭い書評
ところで、「非暴力主義は、ガンディーの見解によれば、日本の侵略者達に対するところの支那人においても機能したことは間違いないはずだった」のくだりは、このレリヴェルドの本にそう書いてあったというよりは、英国人歴史家たる書評子のアンドリュー・ロバーツ(Andrew Roberts)(H)の勝手な忖度なのではないか、と私は勘ぐっています。
この際、彼による書評で胡散臭い部分をもう少しご紹介しておきましょう。
「1942年8月、日本軍がインドの玄関口にあって、既にビルマの大部分を奪取していた折、ガンディーは、<英国の>戦争努力を邪魔することを企図した運動を開始して英国をして「インドを去(Quit India)」らしめんとした。
ジェノサイドを旨とする東京一派(regime)が北東インドを奪取するようなことあらば・・英国の部隊がそれを押しとどめることがなかったならば、ほとんど間違いなくそうなっていたことだろう・・その結果はインド民衆にとって大災厄であったろう。
フィリピン人総数の17%を下回らない数が日本の占領下で命を絶たれたが、インド人には少しはましな運命が待っていたと考える理由はない。
幸いなことに、英国の<インド>副王のウォヴェル卿(Lord Wavell)は、単純明快にも、ガンディー及び彼に従った者達60,000人を投獄し、日本軍との戦いという仕事を続けた。
<また、>ガンディーは、大英帝国と<ドイツの>第三帝国とは「完全な相似形(an exact parallel)」であると主張したが、英国は、日本軍の勢いが減殺する1944年までの21ヶ月間、ガンディーを贅沢にもアガ・カーン(Aga Khan)の宮殿に投獄し続けたところ、ヒットラーは、自分ならガンディーと彼に従った者達を射殺したと言明している。
(ガンディーとムッソリーニは、二人が1931年12月に会った時に意気投合している。
偉大なる人物(Great Soul)が、首領(ドゥーチェ(Duce))の「貧者への奉仕、超都市化への反対、資本と労働の間の調整努力、自国民に対する情熱的な愛」を賞賛したからだ。)
ガンディーが南アにいた21年間(1893~1914年)、彼はボーア戦争にも1906年のズールー戦争にも反対しなかった。
<それどころか、>彼は、いずれのケースにおいても、患者運搬車大隊を募っ<て英国側を支援し>たし、第一次世界大戦中にインドに戻ると、自らを英国の「<志願兵>募集機関長(recruiting agent-in-chief)」に任じた。
そのくせ、<第二次世界大戦においては、>彼はファシズムに対する戦争に反対することに良心の呵責は覚えなかったのだ。」(A)
「フィリピン人総数の17%を下回らない数が日本の占領下で命を絶たれたが、インド人には少しはましな運命が待っていたと考える理由はない」中、その前段については、フィリピン人を焚きつけて日本軍へのゲリラ戦を戦わせ、また、フィリピン奪還作戦を敢行して多数のフィリピン人住民を巻き込んだ米国の責任を無視した暴論ですし、その後段については、英国当局が先の大戦中にベンガル大飢饉で100万人単位の餓死者を出したくせによくもまあそんなことが言えたものです。
そもそも、「ジェノサイドを旨とする東京一派」というくだりには開いた口が塞がりません。
ちなみに、ロバーツ(1963年~)は、ケンブリッジ大学で歴史学の博士号を取得していながら、企業財務の専門家としてのキャリアから出発したという変わり種の保守派で、現在、英米のマスコミで売れっ子の歴史家ですが、彼の書いた本が事実の誤りが多いと批判されたことがある上、アパルトヘイト懐旧団体の招きで講演をしたり、インドのアムリッツアーにおける虐殺やボーア戦争時のアフリカーナ強制収容所について、批判的でないと彼は指弾されたことがあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Andrew_Roberts_(historian)
3 終わりに
以前に(コラム#176、で)ガンディーをとりあげた時、彼を「マハトマ・ガンジーという、平均的イギリス人の偏見を身につけつつも、同時に個性が強い色黒のイギリス人もどきの人物」と形容したことがあります。
そして、「「個性」と「個性」がぶつかりあって打ち消し合うイギリス本国とは異なり、ガンジーの特異な反産業主義的「思想」は、これがインド亜大陸の英国からの解放をもたらしたとの誤った認識とあいまって、これとぶつかりあい打ち消し合う「思想」がないまま、インド亜大陸の原住民達・・とりわけ後のインドの原住民達・・に「普及」し、一種の自然発生的な国家イデオロギーと化してしまうのです。これが、独立後のインドに大きな悲劇をもたらします。その悲劇とは、世界最大の民主主義国インドの貧困と停滞です。」と記しました。
今でも、この考えに変わりはありません。
こんなガンディーが、インドの一部でいまだに聖人視されているだけでなく、ガンディーの非暴力主義が戦後の米国における市民権運動や、更には現在のアラブ革命にまで影響を与えていることは、歴史の女神のいたずらも度が過ぎる、と言いたくなります。
結局のところ、非暴力主義が意味を持つのは、・・肝腎の英国支配下のインド亜大陸ではガンディーらが殺されこそしなかったけれど、非暴力主義は政治的には何の役割も果たさなかったわけですが・・戦後の米国のような自由民主主義国や、自由民主主義理念が一定程度普及するに至っていた現在のチュニジアやエジプトだけにおいてなのです。
そんなガンディーはいかなる日本観を抱いていたのでしょうか。
「日本軍が米英と開戦した後に進撃を続けた時期には日本軍の受け入れを模索する姿勢を見せていた・・・ガンディーは<、その後、>・・・1942年7月26日に・・・「すべての日本人に」・・・と題する以下の公開文書を発表した。
私は、あなたがた日本人に悪意を持っているわけではありません。あなたがた日本人はアジア人のアジアという崇高な希望を持っていました。しかし、今では、それも帝国主義の野望にすぎません。そして、その野望を実現できずにアジアを解体する張本人となってしまうかも知れません。世界の列強と肩を並べたいというのが、あなたがた日本人の野望でした。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟を結ぶことによって実現するものではないはずです。あなたがたは、いかなる訴えにも耳を傾けようとはなさらない。ただ、剣にのみ耳を貸す民族と聞いています。それが大きな誤解でありますように。 あなたがたの友 ガンディーより。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC
「平均的イギリス人の偏見を身につけ」ていたガンディーが、上記のような「平均的イギリス人」的な日本に対する「偏見」を吐露したことに、何の不思議もありません。
最後は、私がその毒舌の迫力だけは買うロバーツのガンディー評で締めくくりましょう。
「ガンディーは、性的瘋癲人(weirdo)であり、政治的無能者であり、狂信的なる流行追っかけ人(faddist)であって、自分の取り巻きの人々に対してしばしば徹底的に残酷だった」(A)
(完)
再びガンディーについて(その5)
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