太田述正コラム#0027(2002年4月7日)
<日本の閉塞状況について>
(日本=香港・台湾学会の4月14日の研究会における私の話の原稿です)
林建良さんが、私の後で「日台米安保」についてお話をされます。大いにこのような議論をすべきでしょう。しかし、悲しいかな、この種の安全保障政策論をきちんと戦わすことができる人々が日本の政官界にはいません。私はこのことが現在の日本にとって最大の問題だと考えており、これこそが日本の現下の閉塞状況のよってきたるゆえんであると考えています。本日、私はそのことについてお話ししたいと存じます。
なお、本日のお話は、既に私のホームページ(http://www.ohtan.net)のコラム欄に二回に分けて掲載してあります。本日、よくお聞き取りになれなかったところや私がはしょったところ、更には私のお話の典拠等については、後でこのホームページをご参照いただきたいと思います。
1 日本の閉塞状況
イギリスのエコノミスト誌は、「日本という「不良国家(=The non-performing country)」」という題名の社説(2002.2.16。日経ビジネス2002.3.4に転載)で、「あれほど問題を抱えながら、毎度お馴染みの顔ぶれ??自民党議員たち??が当選し続けて、政府を切り回さないまでも、率い続けてい」る。「有権者たちもその実改革をさほど熱心に望んでいない。そのことを、恐竜族は先刻承知の上なのだ」、「日本では国民も既成政治家も、国が長い衰退の道を歩むことを受け入れているとしか見えない。」、「そうならないための条件はただ一つ。それは日本人自身が落胆する能力を獲得することにほかならず、この際きっかけとなり得るのは次のいずれかだ。銀行の取りつけや国際価格の崩落という形で貯蓄を脅かされる不安が広まり、変革以外道はないという決意が生まれるか・・、総選挙で既成勢力を一掃することである。」「今はまだ、日本は無視できる存在かもしれない。怖いのは、この国は世界にとって重荷になり得るということである。」と書きました。
これは、同誌編集長のビル・エモットが執筆したものです。10年くらい前に彼が東京特派員だった時に書いた「沈み行く太陽―日本」という題名の記事は、バブルに浮かれ、世界の資産を買いあさっていた日本に冷水を浴びせ、日本の衰退を予言したことで知られています。今回の社説もまた、遺憾ながら正鵠を得ている可能性が高い、と我々は受け止めるべきでしょう。
2 吉田ドクトリン
この日本の閉塞状況はリーダーの払底がもたらしたものだと私は考えています。リーダー払底の原因は、様々あります。
?? 中央集権化
?? 植民地の喪失
?? エリートの武士的伝統の希薄化・放棄(戦後、教育の完全単線化)
?? ハイポリティックスの放棄=吉田ドクトリン
それぞれについて、詳細に述べることは、後二回ぐらいお話をする機会をいただかないと無理なので、ここでは、??と??が主として日本における多様性の喪失と関わり、??と??が主として日本人の安全保障・危機管理感覚の鈍磨と関わる、ということだけを申し上げておきます。
このうち、一番大きいのは??。すなわち、戦後の国家戦略として吉田ドクトリンを採用したことだ、というのが私の主張であり、本日のお話のテーマです。(もっとも、広義の吉田ドクトリンには、??も含まれると考えます。)
3 イギリスのリーダー像
この私の主張をご理解いただくため、イギリスのリーダー像をご紹介するところから話を始めましょう。
ところで、よかれあしかれ、世界の近現代の殆どすべてはイギリスに由来します。近代科学、資本主義、近代政治制度、近代スポーツ、近代純文学、近代大衆文学(児童文学、ファンタジー、推理小説)・・・。イギリス由来ではないのは、近代音楽、すなわちクラシック音楽ぐらいなものです。近代美術や建築に関しては、イギリス由来とは言えませんが、相当な貢献をイギリスはしています。
イギリス論を話し出すときりがありません。話をもとに戻して、イギリスのリーダー像をご紹介し、日本の現状と比較していただくことにしたいと思います。
(1)有事における果断かつ柔軟な対応:フォークランド戦争
今年はフォークランド戦争勃発二十周年であり、イギリスのメディアは盛んにフォークランド戦争の追憶記事を掲載し、追憶番組を報道しています。
82年4月2日のアルゼンチン軍によるフォークランド(アルゼンチン名マルビナス)侵攻はイギリスにとっては不意打ちに近いものでしたが、当時のサッチャー首相は、国防省の反対を押し切って軍事力による奪還を決意し、陸海空合わせて27,000名にのぼる軍勢・・この中には、ヘリコプターのパイロットとして参加したエリザベス女王の第二王子アンドリューも含まれます・・がフォークランドに派遣されました。
その際、40隻、50万トンもの民間船舶が徴用ないし借り上げられ、戦時仕様に改装されて輸送任務に従事しました。客船のクィーンエリザベスと二隻のフェリーが第五旅団を載せて派遣されたことに、当時目を見張った方もいらっしゃるかと思います。
また、対応が迅速だったことにも驚かされます。フォークランド派遣艦隊の第一陣の二隻の空母等からなる部隊がイギリスから出発したのは侵攻を受けてからわずか三日後の4月5日でした。(正確に言えば、フォークランド侵攻の三日前から派遣準備に入ったので、六日間で準備を整えたことになります。)(http://www.naval-history.net/NAVAL1982FALKLANDS.htm http://news6.thdo.bbc.co.uk/hi/english/static/in_depth/uk/2002/falklands/guide1-7.stm)
これはリーダー達が平時から、いかに有事のことを考えて準備を怠らなかったかを示すものです。有事法制を整備するというのはこういうことを指すのです。
最近になって明かされたことですが、当時、米国は自分の裏庭で起きたことであるだけに、優柔不断でイギリスをロクに助けてはくれず、イギリスは単独で、はるかに本国から戦場に近かったアルゼンチンの強力な軍隊と戦ったのです。後一週間アルゼンチンのフォークランド守備隊の降伏が遅れていたら、イギリスは破れていたであろうということも最近明らかにされました。
(http://www.guardian.co.uk/falklands/story/0,11707,678574,00.html)
実際、フォークランド戦争に一陸軍兵士として出動させられたあるイギリス人は、降伏した敵守備部隊を見たところ、兵員数がイギリス側の派遣陸上兵力の三倍もあり、またその装備も侮りがたいものがあってびっくりし、こんな敵と戦ったのかと慄然たる思いがしたと当時を回顧しています。
アルゼンチン守備隊の司令官は、当時のガルティエリ大統領の意向に逆らって独断で降伏したのですが、降伏会談にイギリス軍側の指揮官達は汚れた戦闘服のまま臨んだのに、彼は風呂に入り、身だしなみを整えて格好をつけて臨んだというので、アルゼンチンの世論からも非難されました(http://news6.thdo.bbc.co.uk/hi/english/static/in_depth/uk/2002/falklands/my_story.stm)。
帰するところ、イギリスの勝利は、部隊の指揮官を含む両国のリーダーの能力と気力の差がもたらしたものだったのです。
フォークランド戦争の結果は劇的なものがありました。
当時のイギリスとアルゼンチンはいずれも経済的に苦況にあり、しかもイギリスのサッチャー政権もアルゼンチンの軍事政権も不人気にあえいでいました。しかし、戦勝の結果、第二次大戦による帝国の崩壊によって自信を喪失していたイギリス国民の士気は高揚し、サッチャー長期政権の下でイギリス経済はよみがえります。他方、アルゼンチンの方は、国民は完全に自信喪失に陥り、軍事政権は倒れて民政に復帰したものの、経済苦境は続き、ついに昨年の国家破産に至ります(http://newssearch.bbc.co.uk/hi/english/world/americas/newsid_1904000/1904616.stm http://news6.thdo.bbc.co.uk/hi/english/static/in_depth/uk/2002/falklands/my_story.stm(前出))。
(2)平時における廉潔さと法の支配の擁護:情実を排する=anti-nepotism、腐敗を嫌う=anti-corruption
ちょっと長い引用になりますが、ご容赦下さい。
1891年(明治24年)、ガンジー(インド西部カチアワル地方のポルバンダルに生まれ、7歳の時にラジコットに移る)がイギリスで弁護し資格をとって帰国した22歳の時のことです。
「<ボンベイで開業したがうまくいかず、>ラジコットに・・<弁護士>事務所を設けた。ここではわたしは、順調にやっていた。・・この仕事は、私自身の能力よりも、むしろ縁故・・兄・・のおかげだった。・・
兄は、ポルバンダルの故ラナ・サヘブが土侯の位につく前、秘書兼顧問を勤めていた。そしてそのとき、あやまった具申を行なったといって、非難が兄の頭上にふりかかってきた。事件は、兄に悪意を持つ政治理事官(原注:イギリスはインドにある数多い土侯国を征服して、これを直轄地に編成する代わりに、保護国とし、各土侯国に、全権を与えたイギリス人の政治理事官をおいて目付役とし、支配を固めた。)のところに移された。さてわたしは、イギリスにいたとき、この役人と知り合いであった。そして彼はわたしに対してかなり親密であった、と言ってもよかった。兄は、わたしがその友情にあやかって中にたって自分のために弁護し、政治理事官の悪意解消に努めるべきである、と考えた。わたしは初めから、この考え方を好まなかった。わたしは、イギリスでのちょっとした知り合い関係ごときを利用すべきでない、と思った。もし兄にほんとうに過失があるなら、わたしの勧告はなんの役にたとうか。また、無罪なら、兄は適切な手続きで請願を行なうべきである。そして自分の無罪を確信して、結果を待つべきであった。このようにすすめると、兄はおもしろくなかった。兄は言った。
「おまえはカチアワルの事情を知らないんだ。また、おまえにはまだ世間というものもわかっていない。ここであてになるのは、ただ縁故だ。おまえの知り合いの役人に対して、兄のために大いに弁護できるくせに、義務を逃げるとは、弟のおまえらしくない」
わたしは拒否できなかった。そこでわたしは自分の意志に反したが、役人のところに出かけた。私の自尊心が傷つけられることは十分わかっていた。でも、わたしは面会の約束をとりつけてからたずねた。わたしは彼に久しぶりの挨拶を述べた。ところが、カチアワルとイギリスとではようすが違っているのに気がついた。休暇で帰っている役人と、勤務についている役人とは、こうも違うことを知らされた。政治理事官はわたしを覚えていた。しかし、久闊の情を述べると、彼は硬化したようだった。
「まさか、わたしとの友人関係を利用しに来たのではあるまいね。そうだね。」
と言いたげのふうに見えたし、それが顔の動きにありありとわかった。それにかまわず、わたしは本題に入った。イギリスの旦那(サヒブ)はいらだった。
「君の兄さんは陰謀家だ。わたしは、君からもう何も聞きたくない。忙しいのだ。君の兄さんに、何か言いたことがあるなら正当な筋道を通して申請するようにさせなさい」
それで答えはわかったし、たぶん当然のことだったろう。しかし、利己というものは盲目である。わたしは話を続けた。旦那は席から立ち上がって、言った。
「もう帰ってくれ」
「そうおっしゃらずに、終わりまでわたしの言うことを聞いてください」
とわたしは言った。これで彼はいっそう怒り出した。彼は小使い(ペオン)を呼びつけ、彼にわたしを戸口まで案内するように命じた。わたしはそれでもぐずついていると、小使いが入って来た。彼は私の両肩に手をかけて、わたしを部屋から押し出した。
旦那は行ってしまった。小使いもあとについて行った。そしてわたしは、ぶりぶり怒って引き揚げた。わたしは、急いでつぎのような意味のノートをしたためて旦那にとどけた。
「わたしは貴殿に侮辱された。貴殿は小使いに命じて、わたしに暴行をなさった。もし謝罪をなさらないようならば、わたしは貴殿を告訴します」
さっそく、彼の従卒(ソワール)が返答を持って来た。
「貴下こそわたしに無礼を働いた。わたしは貴下に出て行ってくれと要求し、貴下は出て行かなかった。わたしには、小使いに命じて戸口まで案内させるよりほかに、選択のしようがなかった。彼が貴下に事務所から出るように要求しても、貴下はそうされなかった。そこで彼は、貴下を送り出すために、少し力を使った。貴下が告訴をなさろうと、それは貴下のご自由です」・・・
「今後、わたしは、二度とこんな虚偽の場所に入り込むまい。二度とこんなふうに友情を利用すまい」
と、わたしは自分自身に言った。そしてそれ以来、わたしはその決意を破る罪を犯したことは一度もなかった。・・あの役人のところに出かけて行ったことは、疑いもなくわたしの失敗であった。しかし彼の気短さと横暴な怒りっぷりは、わたしのあやまちに比べても、度を過ぎたものだった。退去令も正常なものでなかった。」
(世界の名著77「ガンジー ネルー」収録のガンジー自叙伝 PP138-141)
皆さんは、このエピソードをどう思われましたか。公私を峻別し、情実を排し、腐敗を憎むこのような政治理事官(インド帝国官僚)のようなイギリスのリーダー達の大部分はパブリック・スクールで教育されました。今、本も映画も大人気のハリー・ポッターの物語の舞台がホグワーツという架空のパブリック・スクールです。ハリー・ポッターはクィディッチという、箒に乗って三次元を駆け回る荒っぽい球技で活躍します。このような荒々しい集団スポーツが奨励されるのがパブリック・スクールです。それは当然なことであって、全寮制中高一貫教育のパブリック・スクールは、もともと貴族=騎士の子弟に軍事的リーダーとしての基礎素養を身につけさせる場として始まったのですから。ですから、今でもどのパブリック・スクールであれ、軍事教練が必須教科になっています。
さて、インド帝国官僚は、最も数が多かった時でも1300人。これであの広大で人口の多いインド亜大陸を統治していたわけです。彼らの給与はさして高くなく、環境が環境だけに長寿を全うできる者も少なかったと言われています、結婚も子育ても容易なことではありませんでした。結婚相手は、休暇で本国に帰ったときに見つけなければならなかったし、子供や多くの場合結婚相手とも、子供の本国での教育の時期が来ると別居を余儀なくされました。仕事も大変な激務でした。勤務時間外にもムガール帝国時代からの伝統で、陳情を受けなければならなかったからです(Plain Tales From The Raj, Holt, Rinehart and Winston, 1985 PP187-197)。
まさにキプリングがその詩「白人の重責(The White Man’s Burden)」の中で描いたように、イギリスは「忍耐強くその地に根をはやすべく」「手塩にかけて育て上げた最も優れた人々を送り込」んだ(http://slate.msn.com/id/2082396/。2003年5月2日アクセス)のでした。
確かにイギリスによるインド統治には苛烈な面もありました。イギリス帝国内の「自由貿易」のおかげで本国から大量生産の綿織物が流れ込み、インドの綿織物産業は壊滅しましたし、第二次世界大戦中の1943年には、イギリスはベンガル地方で400万人もの餓死者が出たのを「放置」しました(http://www.guardian.co.uk/comment/story/0,3604,761626,00.html。2002年7月23日アクセス)。しかし、インド人にせよ、パキスタン人にせよ、いまだに旧宗主国イギリスに対し、畏敬の念があるのは、上述したようなインド帝国官僚達の献身のたまものなのです。
それにしても、体に手をかけられて退去させられただけで、裁判沙汰にすることを考えたというのですから、ガンジーが身につけたばかりのイギリス人の人権意識がいかなるものであったかが推察できます。これを鈴木宗男氏に暴行を受けながら泣き寝入りしたわが官僚達・・一人や二人ではありません(「外務官僚覆面座談会 殴られても土下座しても耐えたのは」(「正論」2002年5月号)48頁)・・の不甲斐なさと比べてみてください。
以上ご説明したイギリスのリーダー達の平時と有事における身の処し方は、表裏一体の関係にあるのではないでしょうか。逆に言えば、どちらかが欠けておれば、もう一方も疎かになる、という関係ではないでしょうか。私はそう考えています。(続く)