太田述正コラム#0030(2002.4.29)
<オンリー・イエスタデー・・冷戦時代の自衛隊>

始めに

戦後の日本の安全保障政策は、いわゆる吉田ドクトリンの下、安全保障を全面的に米国に依存するというものだ。日本の防衛についても全面的に米軍に依存する。しかし、自助努力を何もしていないように見えると日米安保が持たないので、対米エクスキューズとして、見かけだけの軍隊である自衛隊を整備し、維持する。
問題の第一は、このような、ハイポリティックスを放棄するに等しい安全保障政策の下では政治が矮小化することだ。政治家が戦略眼を養う機会を与えられず、また本当の意味で修羅場を経験することもないため、国内外情勢の変化に応じ、リーダーシップを発揮して迅速かつ的確に懸案の処理に当たる能力が身につかない。そして、ついには利益誘導と斡旋利得を政治だと錯覚してしまう。政治家の不祥事をあれだけ目にしてもなお小泉総理に圧倒的な支持を寄せて「保守」政権の延命を認めた国民は、吉田学校の優等生であった池田勇人、佐藤栄作両氏のそれぞれの系譜に連なる加藤派の領袖加藤紘一議員(「ハト」派で「経済」優先)と橋本派のプリンス鈴木宗男議員(「タカ」派で「私利私益」追求)が、時を同じくして不祥事で政治生命を失った現在、そろそろ日本の政治の矮小化の根本的な原因に気づいて欲しいものだ。
問題の第二は、政府の安全保障担当部局にモラルハザードが発生することだ。鈴木宗男議員事案等を通じて浮き彫りにされた外務省の惨状は、このモラルハザードによって外務省が骨の髄まで蝕まれていることを示している。
防衛庁はどうか。冷戦時代においては、防衛庁においてモラルハザードを回避するメカニズムが働いていたが、冷戦が終わって以来、そのメカニズムの過半が失われ、防衛庁もまたモラルハザードに蝕まれて退廃、堕落しつつある。しかし、外務省とは違って、国民の防衛庁に対する関心のなさと軍事機密のベールに救われ、その退廃、堕落ぶりが外務省並には露見していないというだけのことだ。
政治が矮小化し、安全保障担当部局が退廃、堕落すれば、その弊害はやがて全行政官庁や地方自治体に及び、そのフィードバックで政治が一層矮小化していくという悪循環が生じる。それがまさに現在の日本を覆う閉塞状況のよってきたるゆえんなのだ。

 私は、以上のような問題意識に立って昨年自ら防衛庁を退職し、「防衛庁再生宣言」(日本評論社)を上梓した。防衛庁の退廃、堕落ぶりについては、この書に譲ることとし、本稿では一つのケーススタディーとして、冷戦時代における防衛庁のモラルハザード回避のメカニズムについて論じ、今後の日本の安全保障政策、ひいては日本の国のあり方を考える資としたい。
 ただし、冷戦時代と言っても、79年のソ連のアフガニスタン侵攻によって東西間のデタントムードが吹き飛んだことに始まり、89年のベルリンの壁崩壊で幕を下ろした10年間の第二次冷戦時代に焦点をあてることにする。

第二次冷戦時代以前

 その前に、大急ぎで第二次冷戦時代以前を回顧しておこう。
第一次冷戦時代においては、防衛庁にモラルハザードは発生しなかった。制服組は、「自衛隊」なるものは一時的な仮の姿に過ぎず、近い将来、名実ともに国軍への衣替えがなされ、その国軍が自主防衛の担い手になるか、米軍と対等のパートナーとなる時代が来ると信じて疑わなかったからだ。当時は、国民世論こそ自衛隊に対して冷たかったものの、日本経済は高度成長を続け、財政規模も年々ふくれあがり、「東側の脅威」も「健在」であって、防衛費が順調に伸びていた時代であり、防衛庁には基本的に順風が吹いていたことが思い起こされる。
ところが、その制服組の夢をうち砕いたのがデタント時代の到来だった。
68年に旧ソ連のチェコ侵入があり、これを契機に中ソ対立が顕在化し、69年には中ソ紛争が起こる。このため、欧州における旧ソ連の軍事的圧力が緩和し、米国におけるベトナム戦争「敗戦」シンドロームもあって緊張緩和、デタント時代となった。これで見通しうる将来において自衛隊が国軍となる可能性はなくなったと日本の誰もが思った。このような状況下にあって、デタント時代に自衛隊がどうやって生き延びるか、とりわけモラルハザードの発生をどうやって回避するかという課題に答えるためにつくられたのが、76年の防衛計画の大綱(以下、「大綱」という。)だ。
大綱の最大の特徴は、
?? 大綱作成当時の自衛隊の現有勢力をもって日本が保有すべき防衛力の上限とした
?? そして、その保有すべき防衛力のトータルとしての意味は問わないこととし、防空、対潜水艦戦等の個別の機能ごとに戦闘能力の達成目標を設定して装備の整備・維持及び要員の教育・訓練を行うものとした
点にある。
 ??は、デタント時代にふさわしい、一方的軍備管理宣言とも言えるが、その実、「静かな環境」下において装備の更新近代化による防衛力増強をねらったものだった。また、??は目標管理の考え方を自衛隊に導入しようとするものだった。??と??のどちらも、デタント時代に予見されたモラルハザードから防衛庁を解放することをねらったものでもあった。

 結果だけから見れば、大綱の制定は大成功をおさめたことになる。大綱は95年に改訂されたが、第二次冷戦時代を経てポスト冷戦時代の四半世紀後の現在でも基本的に維持されているからだ。
 ところで、大綱ができた頃には、すでに米国のカーター政権は旧ソ連の軍事力の増強や第三世界への進出に強い懸念を抱き、実質ベースで低減を続けてきた国防費を増額に転じさせるとともに、同盟諸国に防衛努力の強化を要請し始めていた。そして79年暮れの旧ソ連のアフガニスタン侵攻により、第二次冷戦時代の幕が正式に切って落とされる。
 第二次冷戦時代の到来は、デタント時代にできた大綱にとっては大きな試練であった反面、大綱を救うことにもなった。それは、デタント時代が長く続いた場合、大綱だけで防衛庁がモラルハザードを回避できたかどうか疑問だからだ。

第二次冷戦時代

 それでは、本題のケーススタディーに入り、第二次冷戦時代において、いかにして防衛庁がモラルハザードを回避し、結果として大綱も生き延びることができたかを説明することにしたい。
 結論から先に述べておこう。米国は、第二次冷戦時代の自衛隊に次のような役割を与えた。
?? 西側の対旧ソ連戦において、ペルシャ湾等(第一戦線)における守勢を挽回するために米軍が実施する攻勢=第二戦線の最前線拠点たる日本列島所在米軍基地等を防衛することが主、
?? 日本列島に至る北西太平洋の米軍兵站線を確保するとともに、オホーツク海に潜む旧ソ連の戦略核搭載原子力潜水艦を撃沈することが従、
自衛隊は第二次冷戦時代の西側の対ソ抑止戦略において、不可欠な役割を担わされたことになる。
 こんなことは公式の文書には一切書かれていないが、日米共同研究や共同訓練を通じ、暗黙裏に制服組の周知するところとなった。大綱があえて掲げなかったところの保有すべき防衛力のトータルとしての意義が、日本政府に代わって米国によって付与され、制服組の志気は昂揚し、防衛庁はモラルハザードを回避し、そして大綱もまた生き延びることができた、ということだ。

 (1)当時の東西の軍事力
 私はかつて「コモンセンス」という月刊誌(教育社。この雑誌は現在発行されていない)の84年7月号に、「21世紀の防衛を考える会」というペンネームで「虚像に満ちた日本の防衛論議」という論考を寄せたことがある。
 この論考で掲げた表をここに再掲する。

<ここに、A-4一枚を丸々使う表が入るのだが、省略する。>

 当時、米国政府は、長年にわたって旧ソ連が米国をはるかに上回る軍事費を支出してきていると主張していたが、この表からは、自由主義陣営、すなわち西側陣営の軍事力がソ連圏、すなわち東側陣営の軍事力に比べて、(シーパワーとランドパワーの違いからデコボコはあるものの、)量的に決して劣勢にはなく、あい拮抗していることが見てとれる。量的にと言ったが、核戦力についてだけは、質を加味した数値も掲げた。核戦力については、戦略核戦力では西側が倍以上、非戦略核戦力では1.5倍以上優勢だったことが分かる。ということは、ほかのすべての項目で、質(兵器の性能や稼働率)を加味すれば、むしろ西側の軍事力が東側を上回っていたであろうことが想像できるというものだ。
 要するに、デタント時代においても、グローバルに見れば西側の軍事力は東側に対して明確に優位にあった。
 しかし、局地的に見ると、西側はアキレス腱をかかえていた。第一はペルシャ湾正面であり、第二は西欧正面だ。
ペルシャ湾正面は、西側、特に米本土から遠く離れており、しかも当時、西側は近傍に殆ど軍事基地を持っていなかったのに対し、旧ソ連はこの地域に国境を接していて陸上兵力を即時投入できたし、国境線沿いの多数の空軍基地を使用することもできた。しかも、イランではイスラム革命(79年)が起こって西側よりのパーレビ政権が倒れており、旧ソ連はアフガニスタンに侵攻していた(79年より。前出)。この正面で旧ソ連が更なる軍事進出を図った場合、西側は抵抗らしい抵抗をするすべがなかった。
また、西欧正面では、(質を加味してもなおかつ)東側の軍事力の方が西側より優位にあった。しかも、この優位を戦術核兵器でカバーしようにも、人口密集地帯の両独地域では容易にこれを使う決断は下せない。むろん、直ちに戦略核兵器を使用することなどできない。だから、西欧正面で東側が攻め込んできたら防勢・遅滞作戦をとって時間を稼ぎ、北米からの援軍の到着を待つほかなかった。
従って、ペルシャ湾正面や西欧正面で東側が軍事進出を図った場合、西側が軍事的に優位にある正面があれば、そこで第二戦線を開き、反攻作戦を行うことが極めて有効であると考えられた。
 そしてその反攻作戦の場として選ばれたのが旧ソ連の極東正面だった。
 そこで、旧ソ連の極東正面において、西側が事実軍事的に優位にあったことを確認した上で、当時の米国の意図の表明とこの正面における米軍の配備・オペレーションを紹介し、このことを検証してみたい。

<軍事力の比較>
 旧ソ連の極東正面において、決定的だったのは、第一に旧ソ連が地勢学上軍事的に著しく不利な立場にあったことと、第二に旧ソ連がこの地域に本格的な兵站拠点を持たなかったのに対し、西側は日本という巨大な兵站拠点を持ち、しかもその拠点が安全であったことだ。
 旧ソ連では、ウラル山脈以東の総人口が二千万人しかおらず、中ソ対立下、10億のオーダーの人口と(装備こそ劣悪だったが)数百万の兵力を抱える中国に南部から脅かされており、東は経済大国たる本格的な兵站拠点日本によって扼されていた。極東地域に至っては、人口は更に希薄であり、経済、兵站面においてソ連中央部に完全に依存しており、その中央部との間は、シベリア鉄道一本だけで結ばれていた。とりわけ、サハリン、千島列島から成るオホーツク海地域は、アラスカ(アリューシャン列島)、日本列島及び韓国に西側の軍事力が配備されており、しかも、周辺海域には、いつ何時米空母機動部隊や海兵揚陸強襲部隊が出現するかもしれず、北・東・南の三方を西側によって包囲されていた。
 数の上では多い旧ソ連の攻撃機も、中国向けに相当機数を残しておかねばならず、さりとて他正面から引き抜いて振り回すことにも大きなリスクがあり、(西側の攻撃を受けてただちに失われるであろうサハリンや千島列島の基地が利用できないとすれば、沿海州等から)本土ならぬ北海道を攻撃できる航続距離を持つものすら(稼働率を考慮すればなおのこと)機数的には限られており、攻撃機の性能もまた米国や日本の戦闘機に比べて劣っていた。そして、日本列島が、自衛隊の地上レーダー網と米国の警戒管制機、自衛隊の要撃戦闘機、及び対空ミサイル網によって守られていたことを考慮すれば、旧ソ連が航空攻撃をしかけることは困難だった。
 北海道にすら旧ソ連が航空攻撃をしかけることが困難だったということは、日本列島で制空権を確保することなど夢のまた夢ということであり、日本への地上兵力の着上陸作戦を敢行することも、日本列島以東に水上艦艇を展開することも不可能だったことを意味する。
 旧ソ連が攻撃型原子力潜水艦を使って日本列島や韓国への米軍の兵站線や日本と世界の間の海上交通を破壊することも不可能だった。米国の「サイエンス」誌の81年4月1日号掲載の記事によれば、「SOSUS(注:海底敷設聴音用ケーブル)が太平洋と大西洋・・に設置されているようだ。とりつけてある水中聴音機器を用いて、半径40kmないしそれより狭い範囲まで敵潜水艦の位置を確定できる」ので、米海軍の200機強と海上自衛隊の約100機の(P-3C)等の対戦哨戒機をもってすれば、西側が制空権を握っていて対戦哨戒機が飛行できる海域において、当該海域に潜む旧ソ連の潜水艦をことごとく撃沈することはさして困難ではないからだ。(ちなみに旧ソ連はまともなSOSUSを保有しておらず、対戦哨戒機の数も少なかっただけでなく、性能も劣っていた。)

<意図>
 カーター政権の末期には、既に日本を含む同盟諸国に防衛努力強化要請がなされていたと先に述べたが、これだけであれば、69年のニクソンドクトリン発表以来の話のむしかえしであるとも言えた。しかし、より興味深い「要請」が同時に日本になされていた。
 80年11月23日に、ホルブルック東アジア・太平洋担当国務次官補(当時)は、ニューヨークのジャパン・ソサエティーで行った講演で、「80年代における我々の基本的課題は、NATO、日本、ANZUS諸国と我々との主要同盟関係を強化、統合することだ。・・・今後数年間にわたって、我々は日本を米国、西欧と次第に積極的なパートナーシップに引き入れる歴史的機会に直面するだろう」と述べ、彼の上司であるマスキー国務長官(当時)は、同じ年の12月19日に、時事通信のワシントン支局長のインタビューにおいて、「日本は既に公式なNATOのメンバーだ。NATOではいつも日本のことを考えながら議論する。・・・NATOは時代遅れの地域的な機構に他ならない。もっとグローバルなものにしなければならない・・・NATOと日本だけでなく、オーストラリア、ニュージーランド、ASEANなども考えに入れていきたい」と語り、支局長の「日本が軍事的に強くなるのは周辺諸国に色々な懸念を起こしてまずいのではないか」との質問を、「そんな話は大昔の話だ・・一世代前の話だ。今日の若い人々の世代はもう忘れている」と一笑に付している。
 この民主党政権の考え方を、翌81年から始まった共和党政権たるレーガン政権も引き継ぐことになる。
さて、前記??については、78年に公表された米国防大学の’Sea Plan 2000′ と82年に出た83会計年度米国防報告が根拠になるし、??については、「海洋をベースにした抑止の将来」(The Future of the Sea-Based Deterrent, 73)という本の中のブルックスによる「戦術的対潜水艦戦と戦略的対潜水艦戦との政治的相互作用」(The Political Interaction Between Tactical and Strategic ASW)という論文が参考になる。
Sea Plan 2000′ は、レーガン政権において、国防総省の国際安全保障担当次官補となるウェストが、国防大学の研究員だった時に執筆したものだが、この中に「主要な戦争・・の抑止のために海上兵力が貢献できることは・・第二戦線を、それも太平洋において開くことなどである」(the main element of naval contribution to this deterrence・・・of major war・・・include・・・the capability to open a second front especially in the pacific)というくだりがある。
 そして83会計年度米国防報告は、「仮に敵がたった一つの場所を攻撃してきたとしても、我々は必ずしも当該正面においてのみ侵略に対処する必要はない。我々は兵力を振り回すことによって、敵に沢山の場所で戦いを強いたり、或いは我々の兵力と軍事的資産を最も決定的な限られたいくつかの戦域に集中させるかもしれない」(even if the enemy attacked at only one place, we might choose not to restrict ourselves to meeting aggression on its own immediate front. We might decide to stretch our capabilities, to engage the enemy in many places, or to concentrate our forces and military assets in a few of the most critical arenas)と述べた上で、「とりわけペルシャ湾地域に関しては、我々の戦略は、最も効果的にソ連の侵略を抑止するのは、<ペルシャ湾地域で>米国や米国の友邦国の軍隊と間で戦闘が生じる恐れとともに、我々が戦争を他の正面でも引き起こす恐れである、との考え方に基づいている」(For the region of the Persian Gulf, in particular, our strategy is based on the concept that the prospect of combat with the US and other friendly forces, coupled with the prospect that we might carry the war to other arenas is the most effective deterrent to Soviet aggression)と宣言した。Sea Plan 2000′ は、ここに米国政府の公式の軍事戦略・・水平エスカレーション戦略(Horizontal Escalation Strategy)となった。

 また、ブルックス論文の趣旨は、対潜水艦戦というのは、戦術的意義と戦略的意義が分かちがたくからみあっている特異な作戦だ、ということだ。仮に核保有国たる旧ソ連の軍用機がA国の艦船(軍艦であれ商船であれ、公海上でもA国の主権が及ぶ)を一隻沈没させたとすると、自衛権の発動としてA国は無差別に旧ソ連の潜水艦を撃沈することができる。
 「無差別に」というのは、その旧ソ連の潜水艦には、(米国内等の戦略目標を核ミサイルで攻撃できるだけでなく、魚雷等で艦船の攻撃ももちろんできる)大陸間弾道弾搭載の原子力潜水艦も含まれるという意味だ。

<配備・オペレーション>
 下掲の年表を見て欲しい。

78年:日米防衛協力のための指針ができ、また、初めて航空自衛隊と米軍との共同(実働)訓練が行われた。
80年:在沖米空軍のF-4ファントムがF-15に更新近代化され、早期警戒管制機E-3Aが配備された。
81年:初めて陸上自衛隊と米軍との共同(実働)訓練が行われた。
82年:初めて陸上自衛隊と米軍との共同指揮所訓練が行われ、米軍と韓国軍との共同演習であるチームスピリットに初めて米空母が参加し、また、米空母が久方ぶりに日本海に入った。更に、海兵隊を載せた揚陸強襲艦が初めてオホーツク海に入った。そして、戦闘機部隊が撤退していた三沢へのF-16の配備が発表された(配備は85年)。
83年:初めて航空自衛隊と米軍との共同指揮所訓練が行われ、長い間モスボールになっていた戦艦ニュージャージーがミサイル装備を施された上で現役復帰し、太平洋艦隊に配備され、また、大西洋艦隊の原子力空母と太平洋艦隊の通常型空母のさしかえが行われた。
84年:初めて海上自衛隊と米軍との共同指揮所訓練が行われた。

 米国がまなじりを決し、自衛隊を巻き込みながら、水平エスカレーション戦略を実行に移す布石を矢継ぎ早に打って行ったことがよく分かる。

<シナリオ>
 実際に水平エスカレーション戦略を実行に移す際に考えられる有力なシナリオは次のようなものだ。
 ペルシャ湾正面又は西欧正面で旧ソ連軍が攻勢作戦をとるや否や、沖縄を飛び立った警戒管制機の統制の下、空母艦載機、在韓米空軍機、及び在アラスカ米空軍機等は、千島列島、サハリン、沿海州等の旧ソ連空軍基地・飛行場、港湾、レーダーサイト、対空ミサイル基地を一斉攻撃してこれら基地等を無力化するとともに、シベリア鉄道、バム鉄道路線を攻撃し、遮断する。また、オホーツク海等に潜む米海軍の攻撃型潜水艦は旧ソ連の艦船等を攻撃する。
その一方で米国政府は日本政府に、在日米軍の出撃について事前協議を行う。日本政府が同意した時点で在日米空軍機等も上記攻撃に参加する。この在日米空軍機等は、日本政府の同意後、日本に飛来する米本土等の空軍機等によって増援される。米本土等から、米陸上兵力も続々日本列島に到着する。
 この過程で、旧ソ連は、何らかの形で日本への武力攻撃とみなされる行動をとらざるをえなくなる。その瞬間、日本政府は自衛隊に防衛出動を発令し、陸上自衛隊を北海道・東北北部に集中させて攻勢作戦を遂行する米軍の後方の安全を確保するとともに、日本への海上交通保護のためと称し、対馬、津軽両海峡を封鎖するとともに、日本列島を迂回して北西太平洋海域に侵入しようとする旧ソ連の爆撃機等を要撃戦闘機への攻撃を開始し、かつ対戦哨戒機による無差別の対潜水艦戦を発動し、米軍の日本列島への海上・航空兵站路の安全を確保する。
 この頃には、旧ソ連のオホーツク海周辺空軍基地は壊滅状況になっており、オホーツク海上の制空権は西側に移る。すると直ちに、米海兵隊揚陸強襲部隊が千島列島への着上陸作戦を敢行し、米陸軍部隊がそれに続く。着上陸に成功した時点で千島列島は封鎖され、旧ソ連の大陸間弾道弾搭載原子力潜水艦はオホーツク海(と日本海)に閉じこめられる。
 次にサハリンへの着上陸作戦が敢行される。
 ここまで来たら、自衛隊による対潜水艦戦は、最初から活動していた米海軍の攻撃型潜水艦、及び先導役を務める米海軍の対戦哨戒機の後に続く形でオホーツク海(と日本海)にも及ぶ。旧ソ連は、当時、保有大陸間弾道弾搭載原子力潜水艦勢力の三分の一をオホーツク海を中心とする極東海域に配備していたが、その全てを失い、旧ソ連の第二撃核戦力は著しく減殺し、もともと西側より劣っていた核抑止力は見る影もなく弱体化してしまう。
 旧ソ連は、中国に対する懸念もあり、極東地域防衛のため、残された基地等に他の正面から空軍機等を引き抜いて派遣するとともに、鉄道が使えなくても増援地上部隊の派遣を試みざるをえない。
以上の結果、他の正面における旧ソ連の攻勢作戦は頓挫する。しかも千島列島とサハリン(の南半分)は国際法上は帰属未定の地であり、当該戦争終了後も旧ソ連に復帰することは考えられず、また、これに伴ってバレンツ海とともに大陸間弾道弾搭載原子力潜水艦の「聖域」であったオホーツク海も、制空権が完全に失われることから、未来永劫「聖域」たりえなくなるだろう。
忘れてはならないことは、これは抑止戦略なのであって、上記のようなシナリオが想定できるからこそ、旧ソ連はペルシャ湾等で一層の軍事的進出を図ることを断念せざるをえなかったということだ。

<総括>
 第二次冷戦時代の自衛隊の役割は、政府憲法解釈に忠実であった公式の防衛政策と形の上では抵触しなかったものの、その実態はかくのごとくであり、事実上の拡大NATOの極東軍の隷下部隊として、米国の核戦略にコミットし、西側の抑止力の一端を担うものだった。そして、そのことに日本政府は気づかなかったか、気づいていたとしてもあえて目をつぶっていた。

終わりに
 
第二次冷戦時代は、防衛庁がモラルハザードから解放された幸せな時代として制服組の脳裏に焼き付いている。しかし、それは日本の国民の全くあずかり知らないところで日本の自衛隊が対旧ソ連の抑止力の一環として重要な機能を担わされた、とんでもない時代でもあった。とまれ、(欧州等における戦域核兵器配備競争を含む)第二次冷戦時代の軍拡競争に疲れ果てたことが一因となって旧ソ連は崩壊するに至るのだが、これに自衛隊も少なからぬ貢献をしたことになる。
しかし、政府は、米国及び制服組の「満足」をよいことに、吉田ドクトリンを墨守し続け、安全保障問題を直視することなく、従ってデタント下で策定された大綱の抜本的見直しを図ることもなく、第二次冷戦時代を漫然と過ごしてしまう。
そして、第二次冷戦時代が終わり、ポスト冷戦時代に入り、保有すべき防衛力のトータルとしての意義が再び失われ、防衛庁は次第にモラルハザードに蝕まれ始める。しかし、防衛庁の退廃、堕落ぶりの一端が調達実施本部不祥事等を通じて98年に明らかになり、またその頃からマイナーな不祥事や事故が頻発するようになっても、なお政府は拱手傍観を続けて現在に至っている。
そうしているうちに、昨年9月に同時多発テロが勃発し、時代は再び大きくカーブを切った。米国は日本に対し、昨年は対アフガン戦争への自衛隊の参加を求めたが、今年は対イラク戦争への参加を求める可能性が強い。これが第二次冷戦時代のデジャヴの話のように見えて、そうでないのは、米国の要請に第二次冷戦時代のような対応(=要請を公式には無視しつつ、実体面で協力)をすることは、戦場が遠隔地にあることから困難だという点だ。
政府は昨年、対アフガン戦争への参加要請を受け、苦し紛れに「「平時」法たるテロ対策特別措置法」を制定し、「インド洋に自衛官を派遣し、運用実体面で事実上集団的自衛権の行使に踏み込ませるというアクロバット的対応を行った」(「選択」2002年3月号掲載の拙稿)が、対イラク戦を始めとする今後の対テロ戦争の時はどうするのだろうか。米国の要請を断るのか、引き続きアクロバット的対応を行っていくのか、憲法解釈の変更(吉田ドクトリンの精算)にまで踏み込むのか、政府は崖っぷちの決断を迫られている。